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「表層的ロリコン論」Vol.1

では、社会の歪みや醜さ、汚さへの浄化を、妹的なる少女へ求めたのは、日本孤立の現象だったのかと問われれば、実は社会が病んでいたのはアメリカも同じであり、むしろ当時の日本の安保闘争のベースにあったベトナム戦争は、日本よりもアメリカの方が、ダイレクトに当事者なのだという基本に立ち返ってみれば、似たような現象が見られるのも当たり前であろう。

アメリカでは、ベトナム戦争の影響から、60年代中期以降「アメリカンニューシネマ」という、社会派実験的映画ジャンルが流行していたが、そこに挟まる形で、やはり現実逃避としての「イノセンスな少年少女の恋愛」を描いた『小さな恋のメロディ』(原題:Melody 1971年)などはあったが、ここで大事なのはそのニューシネマ作品群の最後を飾るかのように輝いた名作が、1976年のMartin Scorsese監督『タクシー・ドライバー』(原題:Taxi Driver)であったということであろう。

ワリス・フセイン『小さな恋のメロディ』
『タクシードライバー』予告編
マーティン・スコセッシ『タクシードライバー』

『タクシー・ドライバー』は、主演のRobert De Niroが(劇中で明確な説明はされていないが)、ベトナム症候群に悩まされるベトナム帰還兵であり、そこで陥ってしまった不眠症ゆえに、タクシーの運転手を無気力に務めるのだが、その先で、状況に流されるまま紆余曲折した主人公は、一目惚れした政治家秘書(成熟した女性)の為に、テロリストの英雄になろうとしたにも拘わらず、気付いたら、ゆきずりの幼い少女娼婦を助けるために戦ってしまい、望まなかった「本当の英雄」として、祭り上げられるという結末を迎える。

Martin Scorsese監督は、後々に至るまで社会派監督として才能を発揮するが、ここでも前回述べた日本の表現の構図であった「少女」と「戦争」が、アメリカンニューシネマの枠の中で、密接に絡み合って作劇を成立させていることが分かる。
この映画の余談としては、ローティーンにしては巧み過ぎる演技力を発揮し、子役女優として一気に脚光を浴びたJodie Fosterが、この映画に影響を受け過ぎた狂人による、Robert De Niroの主人公を真似た、大統領候補暗殺未遂事件を起こした引き金と、認識されてしまった事である。そのため、女優としてはばたかなければいけない千載一遇のチャンスの時期を、Jodie Fosterは24時間、FBIの捜査官の監視付の状態で、日常を過ごしたという。そのジョディの経験が、後の『羊たちの沈黙』(原題:The Silence of the Lambs 1991年)での、女FBI捜査官役に活かされている……という与太話はともかくとして、それだけこの時代「少女性」は、映画館のスクリーンを突き破って、観客だった男をテロに走らせてしまうだけの破壊力があったと、ここでは捉えよう。

一方で、ベトナム戦争当時の世相や社会からの、現実逃避としてのノスタルジィを、あえて白黒フィルムに焼き付けた、Peter Bogdanovich監督の『ペーパー・ムーン』(原題:Paper Moon)が制作されたのは、『タクシー・ドライバー』から遡ること3年の、1973年のことだ。

『ペーパームーン』
ピーター・ボグダノヴィッチ 『ペーパームーン』

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