そしてまた、もしもナースが生物の怪獣であったのだとしたら、ワイルド星には、生命力に満ち溢れた巨大な生物が生息していることになり、そこで描写されるだろう怪獣の息遣いは、命の灯が燃え尽きようとしているワイルド星というイメージとは、逆を行ってしまうからだったのではないだろうか?

一方このドラマは、ウルトラ警備隊側にとっても、そこでのテーマが「命の尊さ」であった。

ワイルド星人の生命カメラによって、一度は命を奪われたダンが、アマギ隊員の尽力によって救われて「アマギ隊員!まさに命の恩人です。ありがとう!」と笑顔で挨拶するラストシーンは、これは既存の評論でも言及されているように、セブン最終回『史上最大の侵略 後編』において、ダンがアマギ隊員のためだけに死地へ向かうというクライマックスへと、帰結して描かれることになるわけだが、本話での大前提としてそれ以上に見逃せないのは、「命の尊さ」という価値概念においては、それを奪う側のワイルド星人と、それを守り取り返そうとする地球側では、完全な一致がそこに見られているという点である。

ここもやはり『ウルトラセブン』という物語世界が、「宇宙人という存在に何を投影すべきか」という点において、前作『ウルトラマン』とは明確に差別化をはかっている部分でもある。

例えば、前作に登場したバルタン星人は「生命? 解らない。生命とはなにか?」という印象的な台詞を残したし、それは決して敵キャラだからという、安易な差別感覚で描写されたのではないことは、最終回に、ゼットンに倒されて一度は死んだウルトラマンを救いに、光の国からやってきた宇宙警備隊員・ゾフィが「命を二つ持ってきた」ことからも理解できるように、それはウルトラマン世界に住む異星人に統一された「常識外」であった。

だからこそ、先述したように『ウルトラマン』では、地底人や古代ミイラ、進化植物人間などといった、「地球内部からやってきた侵略者」の方に、人間的価値観の投影が行われた。

「人間の価値観、概念を持った矮小な個と、夢を託された巨大な怪物」という関係性で括るのであれば、金城氏の中では、二階堂教授とジラースの関係と、ワイルド星人とナースの関係は(そしてまた『まぼろしの雪山』における、雪ん子とウーの関係や、『恐怖のルート87』の少年とヒドラの関係も)、相似形であったのではないだろうか。

藤川桂介氏が描いたミイラ人間とドドンゴの「閉じた関係性」は、それは我々が生きる現代と七千年前の社会との、距離感を描くための要素だったが、金城氏の描く「それ」は、いつだって最後の最後でシャッターを下ろすように、他者がその関係性を覗こうとする行為を拒んで幕を閉じる。

ウルトラを幼い頃から見続けてきたファンの人の中には、ウルトラマンがドドンゴを倒す描写を見て、少しかわいそうになったり、ドドンゴの死に、一抹の寂寥感を感じた人も少なくないだろうが、けれども、本話のクライマックスにおけるセブンとナースのバトルを観て、ナースに対してそれを感じた人は少ないのではないだろうか?

本当に「閉じた関係性」というものは、とことん外部の感情移入を拒んでしまうのであろう。

生命カメラを奪われ、万策尽きて自らも倒れゆく瞬間に、その機械の名を叫んだワイルド星人は、ナースに何を託そうとしたのだろうか。

自分の命が尽きたとしても、機械でしかないナースが、任務を遂行し、民族再興を具現化してくれる夢を、ワイルド星人は燃え尽きる瞬間に見たのではないだろうか……。

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