恒星間侵略戦争を、舞台背景設定に取り入れた『ウルトラセブン』において、そこで登場し、様々な形で地球人と相対する「宇宙人・異星人」の概念が、より人間に(つまり『地上破壊工作』の地底人に)近づいたということは、そこで安易に、敵宇宙人がクライマックスに怪獣を呼び寄せてしまえば、それはいとも簡単に、そして子どもにも分かるほど明確に、「怪獣なんてただの兵器じゃないか」を浮き彫りにしてしまうのだ。

それこそセブンでも中盤以降は、ギラドラスやガンダー、ガイロス、ガブラやペテロ、アロンやパンドンなどをはじめとして、キングジョーやユートム、クレージーゴン、アイアンロックス、恐竜戦車などといった「文字通り機械兵器」も含め、金城氏本人による作品も含めて、そこに登場する巨大な怪獣は、その殆どが巨大生物兵器としてのみ、描かれていくようになるのである。

そこには『ウルトラマンA』(1972年)で、まさに異次元人による究極の侵略兵器として設定された超獣にあったような、人の怨念の投影といったようなエクスキューズすらない場合も多い。

それを開き直ったかのように描写してしまった、金城氏の胸中は推測できないが、その転機であったのが、本話と『ウルトラ警備隊西へ』ではなかったろうか?

本話からほんの数話経過した『ウルトラ警備隊西へ』では、まさに侵略兵器以外何者でもないキングジョーというスーパーロボットが、意思も感情も悲哀も、そして自らを操るペダン星人との絆も何もないまま、ただただ機械的に(いや、機械なのだが)破壊と殺戮を繰り返すのみで、ある意味でキングジョーは、セブンの作中で最強の敵キャラとして、今でも知名度を誇っているのである。

「異星人と、異星人が操る機械兵器」という関係性でいえば、本話のワイルド星人とナースも同じであるのだが、そこに感じられる印象は全く真逆である。

むしろ、なぜナースは機械だったのであろうか?という疑問が、そこには生じてくるのである。

普通に考えれば、滅びゆく惑星からやってきて、それが道義的に悪だと知りながらも、自らの民族の存続のために、任務を遂行しなければいけない悲壮感の中に在る、絆を描くのであれば、ナースにあたるキャラは、宇宙の自然が生み出した生き物であるほうが、ロジックとしては自然であろう。

しかし、そこで金城氏はあえてナースを機械として登場させた。

それはなぜか?

そこの不条理感、理解不能なニュアンスこそが、セブンに登場する異星人の持つ「違和感」の正体でもあるのだが、その違和感がいつだって、昨今のアニメに登場する肉感を消失したような、空虚な「心理学テキストを片手にでっちあげた人形」から醸し出すものではなく、生臭い、生暖かい、妙に既視感を呼び覚ます質量を持った違和感であったのは、金城氏・上原氏などのウチナンチュが、我々日本人に対して持っていた、本物の違和感が根底に(無意識に)込められているからだということは、ウルトラシリーズに造詣が深い人であれば既知であろう。

もう一度考えてみよう。

なぜ、ナースは機械でなければならなかったのだろうか。

それを解く鍵は、ワイルド星人のバックボーンにあるのだと思いたい。

民族そのものが、避けることの出来ない大自然の不文律によって、滅びゆこうとしているワイルド星人。

そこで生み出した「尽き果てない命を持った機械」であるナースこそ、彼らの夢を体現した存在だったのではないだろうか?

我々現代社会においても、二足歩行ロボットの開発は行われているが、実はそんなものは、技術的なハードルも多く開発費もかかるにもかかわらず、実用性は(対費用効果で考えれば)低いというのが現状である。

ぶっちゃければ、人間型ロボットなんてあまり必要ではないのだ。けれど科学者たちは、こぞって人型のロボットの完成に心血を注ぐ。なぜか?簡単である、それが夢だからだ。

技術力のパフォーマンスとして人型ロボットは、一般人にとって一番分かりやすいというのもあるが、それ以上に彼らを突き動かしているのは、鉄腕アトムや鉄人28号に端を発した「あの人型ロボット」を、この手で生み出したい、自らがお茶ノ水博士や天馬博士になりたいという、子どもっぽい願望であったりするのが実際である。

ワイルド星人がナースを生み出したのは、それと同じなのだ。

滅び行く自分たち種族。生物である限り、個々の命もまた必ず尽きる。

その運命に抗う意思を託す依り代としての「尽きない命」の象徴としてのナース。

ワイルド星人のメンタリティを洞察していけば、彼らが真に信頼を寄せ、深い絆を築こうとした相手が、巨大な機械の怪物であったという事実は、むしろ自然なのである。

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