それは、相手にも自分と繋がっている実感を与えないと、それは一方通行で終わるということ。

例えば刹那的なセックス行為で、相手と繋がっている自己満足に浸るのは勝手だが、相手が自分と同じような思い入れを、その行為自体に持っていない場合、その思い入れは最後まで一方通行でしかなく、その思い入れが強ければ強いほど、やがてその現実は、その人を追い詰めて打ちのめしてしまうだろう。

「恋愛なんて、しょせんは思い込みでしかないのさ」判ったように言うのは自由だが、しかし、その思い入れが双方の間で共有できたときに初めて、人はその人と繋がれて、共に有した時間を大切に思えるだろう。

では、その実感の共有はどうすれば手に入るのか。

そこにはやはり、セオリーも近道もない。

互いが同じ時間、同じ場所を共有しながら、そこで無限とも思える回数の、キャッチボールを繰り返していくしかないのだ。

たまには暴投もするだろう、相手にぶつけることもあるだろうし、相手が投げたボールを、凡ミスで受け損なうなんてこともあるかもしれない。

しかし、そこでミスをすれば謝り、相手のミスと謝罪を受け入れながら、それでも懸命に、飛んでくるボールを受けて、それをまた投げて楽しむ。

その中で初めて、互いが共有した時間だけが実感になって、そこには、互いの視点の違うゆえのすれ違いこそ起きるかもしれないが、だが決して、それは一方的な思い込みではなくなり、互いの存在を尊重しあえる。

「恋愛や人間関係なんて、しょせんは思い込みでしかないんだよ」は、そこへ到達するまでの、努力を放棄した怠け者の言い訳に過ぎない。

そして、コミュニケーション能力という物は、天性の能力でも才能なんかでもなく、その「実感の大切さ」を知り、それを手に入れるまでの困難を知りながらも、それでも人と手を繋ぎたい、誰かの手で暖められたいと切実に願った者だけが、何度も裏切られ、傷つけられながらも、あきらめずに時間を積み重ねた結果、手に入れることが出来る力なのである。

筆者は差別という概念とその構造に関しては、絶対的に否定的なスタンスを持つが、その差別は、生まれや国籍などといった、本人がどうすることも出来ない、先天的な要素ゆえに巻き起こってしまうものがある一方で、その本人の生き方や選択、自主的な行為の結果ゆえに発生する差別もある。

例えば、勉強をしろと親や教師から散々いわれていたにもかかわらず、怠けて遊びほうけて勉強を放棄した結果、充分な学歴を持たずに成人した人間が、「学歴で人を差別するな」と主張するのは、少し身勝手ではないかとも思うのだ。

(それなりに勉強を努力した結果、望んだ結果を得られなかった人が、不当な差別に反論することは、正しいし必要だとは思う)

「コミュニケーション能力が低い人間を差別するな」は、その点では先天的な要素もあるが、しかしやはり、その力を生まれながらに才能として持っている人は、実は驚くほど少ない。

それを手に入れることが出来た人々は皆、そこでかける努力や、その努力の過程で受ける裏切りや傷と、それを身に付けなければ得られない「誰かの手の暖かさ」との両方を天秤にかけた上で、茨の道だとわかっていても、必死に手を伸ばす道を選んだ結果、手に入れることが出来た能力なのだ。

「コミュニケーション能力がある人だけが、この社会では優遇されて、楽で楽しい人生をおくれる」と決め付けて逆恨みして批判するのは、実は自らの努力不足を省みない逆差別でしかない。

社会では、何かを得ようと思えば、必ずそこには対価があるのがルールだ。

それが金で買える品物ならいざ知らず、自分ではない他人の手が持つ、暖かさであるならばなおさら、自分が、自らが、その「誰かに手を差し伸べてもらえる」に値するだけの、他者から見て「手を差し伸べる価値」のある生き様をしなければならない。

そしてその相応しさは、決してマスコミやテレビが決めるとは限らず、なぜならば、テレビやマスコミに影響を受けるのは誰もが同じであって、だが、その影響だけで人格や価値観の全てが形成されている人間だってゼロだからだ。

そこで手を差し伸べあう瞬間に、人はその手に実感を感じるかを、無意識に重要視する。

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