「本格推理」と「社会派」その二種に代表されるレッテルが各に背負った「ミステリーが果たすべき役割論」のようなものは、筆者から見たときは、文学論の神髄でもあり、社会と人間という、不可分な融合要素を省みる時に、この二種(と、暴力的に区分けしてもいいものかどうか迷うのだが)がそれぞれに、反目しあい、否定しあい、しかし相互の存在を補完しあう、そのリフレインと扶助の歴史が、日本の戦後ミステリー文壇を、絶妙のバランスで舵取ってきたことなどは、これは今、改めて賞賛せねばならないことだろう(まぁ、ことのはじまりはいつだって、石頭の文豪爺さん達の、虚勢と縄張り争いだろうから、そうそう綺麗事ではすまない逸話で溢れているだろう事は、この大河さんだって先刻ご承知であります)。

けれど、そうと分かっていても、踏み入れたくなるほどに、この戦後推理小説文壇の、戦いと政局の移ろいゆきというのは、なまじそこで表層で、過酷な戦いの最前線で死力を尽くしているのが、どちらの軍勢の作品群も珠玉であるからこそ、そこでの戦いも尊く「人が死ぬ。謎が残る。謎が何かを語ろうとする。その、声無き声にだれがどう耳を傾けるか」という、いかなる推理小説でも崩れないこの不文律が、どれだけの「文学としての」可能性を産み続けるのだろうかと、筆者の興味はそこに尽きないのである。

もちろんこの項は、その文化史を追う論ではない。
気分だけで言ってしまえば、それを追ってみたい衝動にも駆られるが、なにせ相手は「戦後推理小説文学論」などという、巨大・膨大な相手になるのだ。それはもう、どう贔屓目に考えても筆者の手には正直余るし、論や説の隙間を埋めるディティールたる、知識も含蓄も、筆者には足りなさすぎる。
しかもそのテーマと論は、この数十年の年月の間で、一騎当千の批評家、文豪、研究家達の手によって、ありとあらゆる角度から、解体され思索され、語られ尽くされている感もなきにしもあらずなのだ。
今更おっとり刀と付け焼き刃で、のこのこ首を突っ込んで、知ったような顔と口で「推理小説とは」を偉そうに語り出しておいて、そこでの御託が、どれもこれも「おいおい、その論は既に先人が語っているよ」では、さすがに惨めすぎて悲しすぎるではないか(笑)

しかし、そこはそれ、大賀さんは、いやしくも物書きとしてはプロであるからして、手応えと嗅覚と、触感の中で得られる確証もあるのである。
評する行為とは、論ずるとは、自分が感じた「あやふやな印象や手応え」に対して、客観性や証拠や裏付けを付加していき、立証していく行為なのである。
批評に限らず、優れた論文とはある意味、それはまさしく推理小説のクライマックスにおける、「名探偵、皆を集めて『さて』と言い」での名探偵の推理ショーそのままなのである。

そういう意味では、筆者はかつてウルトラマンシリーズの評論作品『光の国から愛をこめて』において、数百本の推理小説を書いたようなものなのかもしれない(この「評論とは推理だ」を、あと2ベクトルほど押し進めると、やがてそれは、ひょっとすると、松本清張氏が膨大な小説群の果てに到達した『小説・帝銀事件』『日本の黒い霧』などといった、現実に向けて、作家が推理力と洞察力で挑む作品群にたどり着くのかもしれない)。

とまぁ、やたら長くなってしまったこのコラムにおいて、筆者が何を突然言い出したかったのかというと、悪いけど大河さん、今までおくびにも出さなかっただけで、推理小説文学についても、語らせると深くて長いよ?(笑)という、まぁ知っている人であれば知っている「いつもの偉そうなアレ」でございます。

なんでまたミステリー論? という疑問も当然なので(語ってしまえば身も蓋もなくなるけど)その辺りも、少し解説を加えてみたいのです。

そんな感じでいきなりここからは、ざっくばらんになるのだけど、筆者の推理小説指向が、80年代初頭の江戸川乱歩賞作品までで途絶えてしまったというのは本当の話。
で、それの何が問題なの? という話で語るなら、もう一度、上で書いた筆者の既読作品群を、チェックしてもらうと分かるのだけれど、筆者が追いかけ続けた乱歩賞の、一番最後に読んだのが高橋克彦『写楽殺人事件』で、それを最後に乱歩賞(というか、ミステリー文学全般)に、筆者は興味を失っていったわけであるのだが、実はその直後から、東野圭吾宮部みゆき綾辻行人といった、いわばミステリーニューウェーブのような流れと人材の発掘が、怒濤のように、日本推理文壇において発生するのである。

筆者のミステリージャンル撤退のタイミングは、あまりにも絶妙なまでに、その日本ミステリー界ニューウェーブ台頭前夜であり(東野氏が『放課後』で乱歩賞を受賞したのが1985年。宮部氏が『我らが隣人の犯罪』でデビューしたのは1987年。綾辻氏が『十角館の殺人』でデビューしたのも同年の1987年である)、その後の日本ミステリー界の、勢力分布図と劇的な変節に対し、致命的なまでに、無知なまま取り残されたという現実がある(90年代以降、唯一愛読していたそっち方面の作家に京極夏彦氏がいるにはいるのだが……。賢明な当サイト購読者諸兄は察していただけると思うが、京極氏の書く『京極堂シリーズ』を、アレをして推理小説・ミステリー文学と言い切ってしまうのは、いろんな意味で間違っていると思う(笑))。

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