前回は「市川大河仕事歴 出演仕事編Part3 『タフガイが死んだ日』」
さてさて、何はともかく、まだまだ話は、助監督として飛び回っていた日々のこと。
仕事の方は順調なれど、プライベートも、そりゃ20代ですから遊び盛りで24時間フル稼働可能な大賀さん。
その頃は、というかその頃から大賀さんはオタクだったので、むしろ今よりは盛んにオタク系イベントに走り廻っていた80年代最後半。
今も残るコミックマーケットや、コミケのクーデター組が分裂して開催したコミックスクウェア、当時数回催された特撮大会などにもガンガン参加しており、同人誌こそ中学生の終わりに一冊出しただけであったが、イベント会場で突然ゲリラ的に始まるヒーローアトラクションショーでは、今やゴジラ俳優として名高い破李拳竜氏や、今やアニメメカデザイナーとして名高い中原れい氏等と共に常連で暴れまわっていた。
コミケ文化も黎明期を終え混沌期に入っており、アニメブーム、オタク文化はどんどん盛り上がってきて、コミケ等のイベントの参加人数も、鰻登りで毎回膨れ上がるものの、コミケのシステムと理念がその爆発に追い付いていけず、結果当時のコミケは、モラルもコンプラも全て「自己責任」の名の元、目立った奴の勝ち、記憶に残った者の勝ちという、謎のお祭り騒ぎと化していた。
その中で徐々に文化が膨らんでいったのが「コスプレ」であった。
コスプレ文化は、大賀さんよりももっと詳しい方は山のようにいらっしゃるので、ここでは講釈めいた解説は避けるが、ミリタリー軍服が起源とも、『宇宙戦艦ヤマト』(1974年)の乗組員の制服の胸の「↓」マークを胸に付けてヤマト同人誌を売ったのが起源だとも聞かされたが、まぁそういった歴史の教科書はどうでもよく、大賀さんがコミケに通う頃は、既に百花繚乱「やった者勝ち」の混沌に突入していた。
現代は、まるでグラドルかアイドルかという「プロのコスプレイヤー」が、ウィッグやカラコン等小道具を駆使して、着こなすコスチュームも、アパレルグッズ並みのクオリティで、とても敷居が高くなった分、まさに「アニメから抜け出たような」麗しい、美男美女によるキャラ再現や、一流の腕の原型師による、アニメロボや特撮ヒーローの再現コスチュームが拝めるのであるが、そこはさすが80年代、男も女も「努力だけで目立つか、禁じ手を使うか」の二択しかなかったのである。
話が逸れるが、少しだけ「その二択」を解説してしまえば、当時はアニメの中の登場人物の服装を、縫製で再現するだけで精一杯。生地の選択もままならず、色のリアリズムも考慮されず、しかもアニメ特有の髪の毛の色も最初からあきらめるしかなかった時代だけに、服装や小道具を「頑張りました」だけで、それを着込んだ「自称アニメキャラ」が、似てるか似てないのか、全員お互い「そこは暗黙の了解」で、記号論だけ一致していれば、キャラと認めて繋がり合うという現象が起き続けた。
(ちなみに、ここでの「禁じ手」とは、女性の場合は「必要以上に大胆に肌を露出するキャラを選んで、コスプレ広場で大盤振る舞いをする」がキメ技であり、男性の場合は「ダミーのアトラクションチームを結成して、特撮プロダクションの倉庫に出入りする許可を得て、アトラク用のマスクを無断借用してシリコンで型を取り、そこから複製した“本物のマスク”を即売会のコスプレで着込んで場を沸かす」禁じ手であった)
何が言いたいかというと、プライベートでそういったイベントに通っていると、自然と“そっち”の仲間や友人もできるのだが、そんな中には一定のグループもいたのだ。作品名は避けるが、某SFロボットアニメのコスプレイヤー達が、キャラ単位で繋がり合い、やがてアニメのキャラの数だけ人数を増やしてグループを作り、軍団の象徴のように“旗”まで作るという、今のオタクのマイルドヤンキー化を予見したかのような、暴走族の劣化パロディのような連中もいた。
その中に(ここでも個人名は伏せるが)自称・声優のYさんという人がいて、そのYさんがその、SFロボットアニメコスプレチームの実質リーダーを務めていた。
僕はまぁ、もともと「そういうグループ」にあまり魅力を感じず、コスプレの趣味もなければ、コスチュームを縫う技量もないので、あくまで人間単位で、そのチームの中の人達とコスプレ以外のシチュエーションで仲良く遊んでいたのだが、ある日そのYさんから電話が飛び込んできた。