この「相似形構図」は、以前書いた『サイボーグ009』と『ワイルド7』にあった相似形とは、成立の過程が違うのかもしれない。
決して、『ハルヒ』を送り出した角川スニーカー文庫は、『うる星2』の版権元ではないからだ。
多分、ここからは筆者の仮説なのだが、上で書いたように、おそらく『ハルヒ』作者の谷川氏が、『うる星2』を大好きだったのではないか。好きで好きで、たまらなかったのではないか。だから、アニメや映画、テレビ等という総合メジャーコンテンツでは許されない「作品丸ごとパスティーシュ」も、ライトノベルという、黎明期を過ぎたばかりの、まだ市場もそこそこのメディアでやるのであれば、コミケの二次創作同人誌と同じレベルで許容される、そう考えたのではないか?

また、そこまで姑息でなかったにせよ、『うる星2』と『ハルヒ』を比較すると、非常に面白い「コンテンツビジネスの2000年代」が浮き彫りにされるのである。
今も書いたように、『ハルヒ』は『うる星2』の骨子と骨格をそのまま借りてきた、いわば疑似二次創作作品である。
ネタ元の『うる星2』も確かに、80年代を代表するラブコメ漫画として、様々な異星人少女が漫画を賑わし(それゆえ「五月蠅い」と「うる星」は、掛詞になっている)、誌面を彩ったわけだが、『ハルヒ』の場合、そこを巧みな(2000年代に台頭してきた)「萌えマーケティング」を取り入れ、まるで『ときめきメモリアル』ハーレム漫画のように、記号論的萌え属性を、登場する少女達に与えて人間関係が構築されているのだ。
ざっと書いたとしても、「ツンデレ」「ドジッ子」「ロリ顔巨乳」「眼鏡っ子」「(いわゆる)綾波系」「妹幼女」「お姉さん系」「委員長系」と、いかにも2000年代系でウケそうな属性が、複数の登場人物少女に、ショッピングカタログのように割り当てられている。

代替テキスト
『涼宮ハルヒの憂鬱』

その上で、『ハルヒ』辺りから流行りだした主人公少年像。
内向的で対人コミュニケーションが苦手な、ラノベ読者層が自己投影しやすいように、主人公少年は内向的で、内面だけ無駄に成熟しすぎて、社会や周囲を斜に構えて見下ろしている。自分だけが常識人的立ち位置で、周囲の非常識軍団に振り回されることを常に心の中で愚痴りつつ、言動として断ることは一切せず、ついつい持ち前の(ここ重要ポイント(笑))優しさで、周囲の人達を助けてしまったり、救ったりする。しかし、あくまでも心中は冷淡で、常に状況を冷静に見つめ、「心の中だけ」でツッコミをしながら一人称で物語を進める進行役。
今ではこういう主人公を、「ヤレヤレ系」という属性語が出来たらしいが(周囲で何が起きても「やれやれ」と、傍観者アピールをするから、らしい)、そんな、能動的な対人コミュニケーションをとらない割には、周囲の方から率先して関わってきて、必ずその過程でヒロインとの恋愛が成就する辺りが、90年代以降のハーレム漫画主人公との共通点。ここは、誰かれなく女性とみれば突撃アタックをかけ続け、クラスの男子仲間ともワイワイ騒ぎながら高校生活を楽しんでいた、『うる星』のあたるとは全く異なる。

つまり「そういうこと」なのだ。
『ハルヒ』は、基礎構造と骨組みと核は、そのまま『うる星2』の借り物でしかないのだが、その周辺をデコレートする、パネルラインやテクスチュアの部分だけは、実に計算されつくした「90年代以降のマーケティング方程式」が施されているのだ。

中身は「もはや(『ハルヒ』出版当時で)20歳以下のオタクにとっては“生まれる前”の、カルト人気を誇っただけのマイナーアニメ」で出来上っていて、表層は「90年代以降の、ハーレム漫画、萌え系を、因数分解しつくして、エヴァの綾波要素までしっかり取り込んだ、計算されつくしたキャラクタービジネス」で塗り固めたという、これが確信犯でないのであれば、それこそ「ハルヒなる超存在の意思で出来上った」としか、言いようがないコンテンツに仕上がったのだ。

『ハルヒ』と『うる星2』の酷似は、それだけではなかった。
好評を博し、深夜アニメの定説を塗り替えた京アニ版『ハルヒ』だったが、再開の希望高く、京アニの機運も高まり、2009年に、一気に(深夜アニメの定番は、一期1クール)異例の第2期2クールの放映が決まり、ファンを歓喜させたが、その2クールのうち、実質半分は第1期の再放映であり、この時点でかなりハルヒファンはがっかりしたのだが、さらにそこで、『ハルヒ』と京アニのファンを失望させた騒動に『エンドレスエイト』事件というのがある。

『エンドレスエイト』というのは、原作第6巻『涼宮ハルヒの暴走』で描かれた短編で、ハルヒや主人公少年達の夏休みが、8月31日の終わりを迎えてももう一度数日前にループしてしまう、謎の現象を描いた短編が元なのだが、「同じ夏休み最後の数日が、延々8回も続く」を、京アニは何を考えたのか、30分1話単位で、馬鹿正直に8回を繰り返して放映したのだ。それもいちいち新作画で。
確かに、元々実験アニメの側面ももつ『ハルヒ』であったが、せっかくの第2期、26話の豪華体制新期のシリーズを、その半分をただの再放映で、残りの半分の殆どを、同じ話の繰り返しで構成されれば、そりゃファンならずとも呆れてしまうし、実際この2期の失態が原因で、ハルヒブームは終焉を迎えたとみる向きも多い。

だが、筆者的には、そこで勘づくべきは「終わらない、夏休み最後の数日のループ」という設定であり、もちろんそこは、ヒロインのハルヒ自身の「このまま夏休みを終わらせたくない」という無意識が作用して起こした現象であるのだが、それはそれで、やはりそのまま『うる星2』での「終わらない、文化祭前日のループ」という状況設定と全く同じであり、原因もまた「このまま、文化祭前日という時間がずっと続けばいいのに。終わらせたくない」という、ヒロインのラムの無意識が作用して起きた現象でもあった。

『うる星2』と『エンドレスエイト』に関しては、アニメ評論家の古谷経衡氏が相似を指摘しているが、筆者に言わせれば「今頃気づいたのかよ!」であり(笑)むしろ筆者は『エンドレスエイト』を観た時は「あぁ。なにがなんでも、とことん『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』をやりたいのね」と、半ば呆れて苦笑したものである。

また『涼宮ハルヒの憂鬱』という小説に関して言えば「当初、最初の一冊だけを書くためだけに、全登場人物を設定配置したにもかかわらず、結局大人気になってシリーズ化してしまったものだから、シリーズが続くにつれ、最初作で必須だった人物性や特異性が、逆に足かせになって、上手く物語全体が自然に機能しなくなる」という、これは仕方ない現象面でいえば、ある意味京極夏彦氏の『姑獲鳥の夏』以降の『京極堂シリーズ』に近い現象に陥っているなぁというのが素直な感想である。

批判のようなことを言ってしまえば、そもそもの小説版『涼宮ハルヒの憂鬱』という作品が、他のラノベと比較して、格段に優れていたようにも、あまり思えない(一応、ラノベでもビッグタイトル的な物は読んではいるので)。イラストも、小説版のいとうのいぢ氏の作画では、今一歩「萌え」という意味ではブレイクしそこなっていた感も否めない(その辺の「女性イラスト・漫画家における“萌え”論」は、他の記事でも語っていこうと思っている)。
なので、コンテンツビジネスとしての『ハルヒ』の社会現象大ヒットは、やはり京アニの技術力とアニメとしての再構築力による部分が大きかったのであろうと思う。
それは「アニメはそこそこ観れたけれど、原作が凡作以下の駄作であって、よくもまぁ“コレ”を“アレ”に出来たもんだと感心した、その後の京アニ作品のいくつか」を観て、改めて納得した次第である。

『ハルヒ』も、京アニによるメガヒット現象化がなければ「『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』好きなオタクならニヤリとする、知る人ぞ知る作品」という位置に落ち着いていたのかもしれない。
世の中、何が起きるか分からないのが、コンテンツビジネスなのである。

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