筆者は、基本的にライトノベルというジャンルに、知識も興味もないので、殆ど語らないし、語れないし、語る機会を自分から設けないのではあるのだが。

だが『涼宮ハルヒの憂鬱』という作品は、まず2006年のアニメ化でその名を知ることになり、しかし、筆者はそもそも、深夜アニメ系にもあまり食指がわかない人なので、なんだか、アニメの出来がものすごく良くて、特にエンディングの曲と、そこで描かれるダンスのクオリティが高く、それゆえネットの個人動画等で『踊ってみた』での再現ダンスが大ブレイクしているとか、そういう枝葉末節のような情報が、まず先に入ってきた。

うーん、まぁ、どうでもいいか。
それが、それらのムーブメントを耳にした時の筆者の第一印象だったのだが、その頃(今現在も)付き合いがあった、ハイティーンだったアニオタ青年「大河さん!『涼宮ハルヒの憂鬱(以下・『ハルヒ』)』アニメ版は絶対に観るべきですよ! 大河さんだって元々アニオタだったんでしょう? アニオタを名乗っておいて、コレを観ないなんて、損をするどころか、アニオタ失格ですよ!」と、凄い勢いで迫ってきたのが、ことの始まり。
うーん、もういい加減、アニオタ失格でもいいんだけどなぁ。むしろアニオタ失格者の方が、一般人だし。
そう思ってはみたが、そのハルヒオタ青年(正確には、後に知ることになるのだが、長門有希ラブ青年だった)の「お前はなんだ。角川テレビ東京の営業か!?」というレベルの猛攻撃で、しぶしぶ、筆者もアニメ版『ハルヒ』を観ることにしたのである。

代替テキスト
『涼宮ハルヒの憂鬱』

ふむ。
実際に観た第一印象は「とにかく、映像表現としてのアニメーションのレベルが高い」であった。
噂には聞いていたが、京都アニメーション(以下・京アニ)のアニメクオリティは他社を差し置いてすこぶる高く、例えば劇中の画像が「高校生がフルオートで撮影した自主映画」という設定になると、低解像度のレンズ描写や、オートフォーカスのピントのズレ具合などの再現性が過去に類を観ないレベルで、感嘆させられることしきりの拘りっぷりを見せていただいた。
イマドキの深夜アニメのお約束「作画崩壊」なんてもってのほか、文化祭でのバンド演奏のシーンなどでは(ここは、筆者が最近のアニメに疎過ぎたのか?)ドラムのタイミングやギターコードの押さえ方などが、完璧に音と画がシンクロしているアニメというだけで衝撃で、確かに、まずは京アニの技術力には、驚嘆するすかなかったのも本音(後々「このバンド演奏シーンの技術力の高さ」だけが、「作品的面白さとは乖離した状態で特化するとどうなるか」を明確化したのが『けいおん!』(2009年)じゃないかって、思ってる)。

どうやら『ハルヒ』という物語は、ハルヒという一人の、エゴイスティックでツンデレな少女が、その我儘と奔放な生き方で、無自覚なままさまざまに時空をゆがめてしまうというメイン設定があるからか、本放映ではわざと、作品内時系列をシャッフルして放映順が決められたが(ここはもちろん、連続話としての初期と、一話完結アンソロジーとしての後期で、視聴者を分断させないようにという、プロデュース上での配慮もあるが、それにしても前代未聞であった。その影響か、プロデュース上での問題がないはずの連載漫画でも、石黒正数作の『それでも町は廻っている』等が、時系列シャッフルの影響を受けている)、筆者が観たDVD版では、しっかりとエピソードが時系列順に直してあったので、その辺りは戸惑うことなく、初心者でも物語世界にスムースに入り込むことは出来た。

後で実際の、谷川流氏による原作小説もしっかり読んだのだが、要するに『ハルヒ』アニメ化第一期で、連続物として作られていた、DVD3巻目までの、第6話までが、原作『涼宮ハルヒの憂鬱』のアニメ化であり、残りの7話以降は、『ハルヒ』がヒットしてシリーズになってから書かれた短編等からの抜粋アニメ化らしいので、ここではその、原作1巻目の内容と、そのアニメ化からいろいろ考察してみたい。

代替テキスト
『涼宮ハルヒの憂鬱』

まず、確かに筆者は「元アニメオタク」であったが、他の趣味や義務事よりもアニメを視聴することを優先していたのは、主に10代後半の、80年代中盤までであり、その後は社会人になったり忙しくなったり、趣味がアウトドアアクティブ化するなどがあって、アニメに関しては純粋に「作る人で選ぶ」ようになってしまっていった経緯がある。
もちろん、話題作となればチェックしてしまうぐらいのアンテナは保有していたが、基本的に、富野由悠季、宮崎駿、押井守の3人の監督作品は、必ずこれはチェックするようにはしていたのだが、純粋な子ども向けの『ポケットモンスター』(1997年~)『クレヨンしんちゃん』(1992年~)『それいけ!アンパンマン』(1988年~)等は「いい年した大人マニアは、むしろ観ない方がいいよね」と避けていたり。いわゆるBL層向けや萌え系は、とにかく理解不能というのもあって、結局それらがアニメの市場を席巻するようになってからは、すっかりアニメ市場からは遠ざかってしまっていた。

何が言いたいかというと。
「そういう流れ」でアニメのメインストリームから離れていた筆者だったのだが、『ハルヒ』アニメ版を観ているうちに、何か既視感のようなものを感じ始め、やがてそれは確信に変わり、その先で、筆者をそもそも『ハルヒ』に巻き込んだ青年を、今度は筆者が巻き込んで検証実験を試しにやってみて、揺るがない結論に達したという流れがあるのだ。
その結論とは――

前回「真説?珍説?『サイボーグ009対ワイルド7』」と題するコラムを書かせていただいた。
それはもちろん、あくまで私見だが「漫画というコンテンツを、純粋な創作行為ではなく、コンテンツプロダクツとして読み解いた場合、プロダクツ側のタクト次第で、同じガジェットとモチーフの作品が、共に伝説になってしまう可能性があるのではないか」という主題だったのだが。
その『サイボーグ009』『ワイルド7』を比較検討してみた時のように、改めてここで、『涼宮ハルヒの憂鬱』という作品(とにかくまずは原作小説の第一巻相当)を、恣意的にざざっとその内容を書き記してみよう。

「主人公は一人の高校生の少年。その少年はなぜか、自分からは好きではなかった一人の少女に強引に振り回され、その結果、周囲を宇宙人等の、異人達が取り囲むコロニーに変化させられる。しかし、そのコロニーの変化は、実は主人公を引っ張りまわす、そのヒロインの深層心理的な願望から築かれた、そのヒロイン中心に変化創造された世界であり、その世界は、ヒロインの願うままに変化をしたり、あるべき変化を拒んだりし続け、常に中心にヒロインがいるという構造で成り立っている。しかし、やがてその謎も解け始め、登場人物達のディスカッションや情報交換等で、現状の世界そのものが『胡蝶の夢』のような条件で存在していることが主人公少年にも分かる。分かると同時に世界は崩壊へ向かいだす。それまで、ヒロインを頑なに拒んでいた主人公少年だが、世界の崩壊の危機を前に、自分の深層心理の中にも、そのヒロインへの愛情があったことを自覚し、クライマックス、主人公のヒロインへの『好きだ』という意味の告白によって世界崩壊は直前で回避され“目が覚めて”主人公たちは元の日常の世界に戻れるが、果たして、戻ったはずの世界もまた、ヒロインの望む世界構造のままであった……のかもしれない……」

『涼宮ハルヒの憂鬱』要約

今回は、少し長くなってしまったが、まぁ『ハルヒ』の物語説明としては概ね間違っていない(はず)。
これを考え付いて、Twitter等で呟いた当時は、「そんな設定、どこにでもあるさ」と、後々ハルヒファンだか、筆者へのアンチだかから言われたが、確かにそれこそ『胡蝶の夢』をはじめとして、こうした物語構造(『ハルヒ』劇中では、超能力者のインテリ少年が「人間理論」という言い方をしていたが)は、確かに普遍性のあるものかもしれない。
だけれども――

ここまで前置きが長くなってしまい、なんでわざわざ筆者のアニメ遍歴まで語らねばならなかったかというと、多分“そこ”は、筆者がアニメファンとして、80年代後半から90年代までを、スッポリ(というほどゼロではないが)アニメに対する作品視聴を怠っていたがゆえに、逆にすぐ気づけたのだが、筆者はこの『ハルヒ』を見始めた時、そのクライマックスに至る前に、既に一本の劇場用アニメに対する既視感を激しく覚えていたのだ。

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