安藤監督と乾杯!

【今回の連載の前に】
前回の安藤インタビューが最初に他サイトで掲載された二日後に、Twitterで相互フォロワーをさせて頂いている映画関係者の方からこんなTweetを頂いたのでご紹介したい。本当に人の縁は数奇なるものである。こういった「隠れた縁」を探すのも、好事家の醍醐味であると言えよう。

――安藤昇氏の安藤組に関しては、戦後の任侠世界では数々の逸話と共に伝説化してますからね。

安藤 だからその連中が、組が解散したものだから、CAGに大挙して来たわけですよ(笑)

――受け皿みたいになっちゃったんですね(笑)

安藤 そうそう、怖いんだよ!(笑) そういう中で『ヤサぐれシリーズ』とか作ってたわけ。で、話は戻るんだけど、松竹とそのCAGで台湾との合作映画を企画したわけですよ。それで監督の湯浅浪男とかと台湾に行ったんだけど、フィルムが台湾に入らないためにポシャッた(制作が中止した)わけですよね。で、僕は湯浅浪男とか俳優さんとかと一緒に、台湾で足止め状態になっちゃって。映画自体がポシャッたもんだからお金(ギャラ)が入らないわけですよ。当事は台湾に日本の撮影隊が入るなんてなかったものだから大話題になってて、連日台湾の新聞が、僕らの撮影隊を追いかけてたわけですよ。でもポシャッてね(笑) そしたら何(カ)っていう台湾のプロデューサーが、『こっちの映画で安藤が主役をやるんだったら金を出す』って言うわけ。『台湾側からも俳優を用意するから、日本人の役を安藤達己がやってくれれば』って。だから急遽、湯浅浪男が脚本を書いてさ『夜霧の停車場』(原題: 『霧夜的車站』1966年)ってタイトルで。もうこっち(日本側)のスタッフ達からも『安ちゃん助けると思ってやってくれよ』とか言われちゃってさ。で、しょうがないから主役やったわけ(笑)

 『霧夜的車站』
 『霧夜的車站』

――やっちゃったんですか!(笑)

安藤 だから待ったなしだよ(笑) で、それをやってお金をかろうじてもらえたんで日本へ帰れたんですよ。で、帰ってきてみたら、CAGもその合作が潰れて傾いていたから、ろくに仕事もなくなっていて、だから僕も一ヶ月くらいぼーっとしてたのね。そしたら、当事松竹(CAG)で湯浅浪男の甥で、房前満男ってのが演劇事務をやっていたんだけど、そいつから電話がかかってきて『安ちゃん今何してる?』っていうから、『馬鹿、何してるって何もしてねぇよ!』って(笑) ちょうどその頃、僕は娘が生まれた頃で(註・安藤監督の娘さんは1967年生まれ。その安藤聖己さんは80年代初頭に活躍したテクノバンド・コスミックインベンションのメンバー)。その房前がその電話で『今スタッフが足りないんで困ってるんだけど』って。で、円谷プロの話を聞いたわけ。僕は銀座プロに居た頃、何度か『ウルトラQ』(1966年)の円谷プロの撮影隊と、ロケで出くわしたことがあったんだけど、向こうはミッチェルの35mmで撮ってるわけ。こっちはアリフレックスなわけよ(笑) アリフレックスはぜんまい巻きで100フィートしかなくて、そもそもニュース用なのね(註:ミッチェル35mmとは、当事標準の、劇場用映画用の35mmフィルムカメラ。アリフレックスとは、筆者も学生時代散々使った(笑)16mmフィルムカメラ。ウルトラに詳しい方なら皆さんご存知のように、テレビ界初の本格特撮作品である『ウルトラQ』は、合成の精度を高めるなどの意味もあって、テレビ作品なのに、映画と同じ35mmフィルムで制作された)。

――自分の学生時代の教授が、安藤監督より古い人だったんで、「アリフレックスを使いこなせない者は映画を撮れない」とか言い出す始末で。「いや、アリフレックスなんて、今の時代はもう誰も使わないから!」と(笑)

安藤 だよね(笑) だから羨ましかったから覚えてたわけですよ。で、房前の紹介で円谷プロに行ったんですね。それでこれはこないだ40年ぶりに分かったことなんだけど(笑) 満田(かずほ)さんは(一本監督するたびに)3万円だったんだって。それで他に『飲み代』だっつって1万円もらってただけなんだって。だけど僕、7万か8万(月給)もらってたんだよね円谷から(笑) 要はね、向こう(円谷)の認識としては『本編(劇場用映画)の助監督が来た』と。

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