はたして、さすが司馬遼太郎氏であり、筆者のような三文ライターが付け足せる要素などどこにもない。
広瀬氏の文学的概念と特色、そして独自性を端的に言い表しており、SFに対する偏見も見受けられない。
「しかし」筆者はあえて、そこに蛇足を付け足したい。
司馬氏は広瀬視点を「作者自身は白い実験衣を着た進行係に過ぎず」と言い切ったのであるが、それは果たして、文学や戯作者にありがちな「神の視点」ゆえであったのだろうか?と。
確かに広瀬二大SF作品『マイナス・ゼロ』『エロス』では、主人公とヒロインが、SF的現象の中で、SFという文学の持つ非現実的な展開の中で、あまりにも小さな存在として、翻弄され、この、精密で大掛かりな完全究極文学を構成する、小さな歯車のようにも見える。

しかし、と、筆者は思うのだ。
その「白い実験衣を着た進行係」に見えるかもしれない「広瀬正」という存在がいて、そこにタイムマシンや並行世界へのフラグ分岐を投げかけたおかげで、結果的に、どちらの作品でも、普通の日常だけの連鎖による歴史の中では、決して結ばれていなかったはずの二人が、紆余曲折を経て、奇想天外な流れの果てで「この展開が唯一の道として」結ばれるラストを迎えるのである。

『エロス』ラスト。読者の誰もが「“あの時のフラグ分岐”で、主人公がこっちを選んでよかったのだ」と思えるハッピーエンドこそが、ありえない歴史をたどった先の「現在」であって、読者達がSFに飲み込まれずに過ごす「本当の現在」こそが、主人公カップルにおいて悲劇の人生だったと、初めて知るのだ。

『マイナス・ゼロ』ラスト。運命に翻弄された主人公とヒロインが、ちゃんと結ばれていたのだということを、本人達ではなく、それよりも早く気づいていた、二人の娘でもある思春期の少女が明るく語り掛ける。

「いいじゃない。私が二人の娘だったなんて、ダンゼン素敵なことじゃない。パパもママも、ようやくこれから未来を生きることになったんだよ。この先の人生をまた、あらためて生きていけばいいじゃない。きっといいことがあるよ」

『マイナス・ゼロ』

SFとは、人の運命に対しても軌道修正をかけることが可能な文学なのだ。

筆者は、初読当時高校一年生にして、この言葉が出てくる寸前までの、怒涛の謎解きの大展開に舌を巻きながら、この少女が、あっけらかんと、しかし悲劇と苦悩に満ちた両親それぞれに対し、屈託なく語りかける最後の台詞に、不覚にも落涙してしまった。

だから。
だから思う。
広瀬正氏は、決して司馬氏が述べるような「白い実験衣を着た進行係」ではなかったのだ。
通常の時間軸。非現実的ガジェットを放り込みでもしない限り、絶対に結ばれることがない運命に縛られた、愛すべき二人の男女を、タイムマシンやフラグ分岐という、それこそ「神業」を放り込んでまで「現実」を力技で修正し、そこで起きる全ての捻じれや微細な歪みの全てに気を配り、「あり得ない世界、しかし、その二人が結び合える世界」を構築したのだ。
今「神業」と書いたが、神業を使えるのは神の他は、数えるほどしか存在しない。
そして、まず大前提として、神は「神業(奇跡)」を、個人を救済するためには行使しない。
その「神業」を、ちっぽけな個人の魂を救うためだけに、個人の運命を救済するためだけに、用いて使った広瀬氏。
「白い実験衣を着た進行係」と、見た目は似ている白い姿かもしれないが、それを人は(神の使いであるべき)「天使」と呼ぶのだろう。
広瀬氏は、自身のノスタルジィを誰よりも愛し、大切にし、執筆した作品内に、必ず自己投影の「広瀬少年」を登場させ、あの時代の東京と共に描き続けた。
やがて広瀬氏は、人生が歳を重ね、昭和も戦後が終わり、高度経済成長期を超えようとしてなお、「あの時代を見守り、あの時代の東京に生きた人達の、別れや寂しさを救わん」として、文学という形で天使であり続けようとした。

急逝した広瀬氏の、葬儀における棺には『タイムマシン搭乗者 広瀬正』と書かれていたエピソードはあまりにも有名であるが、筆者はそこに、一筆書き加えておきたいと思う。

『広瀬正 SF作家にしてタイムマシン搭乗者にして 天使』

筆者は敬愛を込めて、広瀬正氏をそう呼ぶことにしている。

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