90年代初頭から、インターネットによるサブカルチャー文化の研究サイトの躍進までの10年間弱の間。80年代まではレトロのひとことで、茶化しの対象だったアニメや漫画やアイドルなどのサブカルチャーが、アカデミズムだったりボンクラ至上主義だったり、文芸的な視線から、主に一般書籍や雑誌などの文芸媒体で、再評価、再批評されるという流れが確かにあった。

たとえばその中では、「映像作品であるはずのウルトラマンを、脚本文芸だけで批評してしまう」というような、悪しき前例を築いてしまったケースもあるが、そこでは、これまでのサブカル批評では単純な結論ありきで片付けられていた、東映ロボットアニメや仮面ライダー、魔法少女アニメといったカテゴリにも、新しい価値基準を植え付けることが出来て、ネット期以降の百花繚乱評価時代の土壌を築いた。

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現代でもおなじみ、ルパン三世ファミリー

『ルパン三世』は、今でこそ国民的な大コンテンツであり、ファミリー向けの無害なオシャレアダルトアクションアニメであるが、『ゴジラ』『男はつらいよ』がそうであったように、当初のシリーズは後とは全く違う、毒と闇で病まれた、アンニュイでAnarchismの産物であったことを、覚えている者は少ない。

ここ40年、特に70年代から80年代を跨いだ、『ルパン三世』2ndシリーズが終わってから以降においては、殆どの国民の中での、「ルパンは義賊」であり「次元は友情に溢れた快男児」であり「五右衛門は、和風でストイックで、女と縁がない、刀に生きる求道者」であり「不二子は、ルパンを決して、心底裏切ることはない、永遠のヒロイン」であり「銭形は、昭和ヒトケタおじさんの典型的間抜けな道化師」であるが、果たしてそれらのイメージスタンピングは、実は宮崎駿監督が、ある意味『ルパン三世』との決別を謀ってストラクチュアして、ものの見事に興行成績的には大惨敗を喫し、当初は大失敗作・大駄作・ルパン映像作品史上最低のB級作品と貶められた、劇場用映画第二作『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年)で施した、意図的な「人物像ずらし」の成果であり、宮崎監督による、ルパンという人物構成の確信犯的破壊と変化球構築からくるものであって、『ルパン三世』に登場する人物たちの人物像の本質は「そこ」にはないことは、誰よりも宮崎監督自身が分かっていたことなのである。
『カリオストロの城』での、ルパンファミリーの演出と構造論は、左傾派思想原理主義的な「人間性善説的視点」から、既にAnarchismがベースになっていた人物群像を描いてみよう、そういった側面を一度掘り下げてみようという、宮崎駿的な、確信犯としての「変化球的」な肉付けであったのである。

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初期はピカレスクロマンであり、フィルムノワールだった『ルパン三世』

しかし、時代というものは、資本主義的市場倫理というものは、間抜けで現金なものであって、興行成績が東宝洋画配給のワーストで打ち切りを食らった当初は、けんもほろろな扱いであった『ルパン三世 カリオストロの城』が、80年代に入り、宮崎駿・大塚康生コンビのカリスマ的人気と、名画座や地上波放映、ビデオソフトなどによる再評価がうなぎのぼりになると、今度は手のひらを反すように、『カリオストロの城』的宮崎ストラクチュアこそが、唯一の正義だったのだとばかりに持て囃されるようになり、やがて作られるようになるテレビスペシャルや劇場版が、どれもこれも『カリオストロの城』の恩恵に預からんとする、二匹目のドジョウ狙いばかりの作風狙いになり、ルパンはワルサーを撃たずに、ベンツSSKにも乗らず、小さくコミカルに走り回るフィアットのハンドルにしがみつき、ルパンの代わりにコンバットマグナムを撃つ次元と、刀への求道だけを誇りにする五右衛門との熱い友情に守られながら、義賊に徹し特に犯罪をするわけでもなく、不二子の助けを借りながら、その時その時のメインゲストヒロインを助けるために活躍し、ヒロインを苦しめる悪党どもをこらしめては、一見ルパンをひたすら追いかけているだけにしか見えない銭形が最後に悪党どもをお縄にするといったような、水戸黄門的オハナシヅクリが、ルーティンのように「カリオストロ後のルパン」を、縛り続けてきたのは事実である。

話を少し戻そう。
では、宮崎監督が意図せず定型化させてしまう以前の『ルパン三世』は、いかようなコンテンツであったのか。
それはもちろん、TVシリーズ最初の、『ルパン三世』(1971年)1stシリーズにあることは明白なのだが、さてさてややこしいのだが、その1stシリーズもまた、『カリ城』と同じく、初動の数字(TVの場合は視聴率)のあまりの悪さに、当初志高くこの新機軸の表現に挑戦していた大隅正秋監督が降板させられ、後に『カリ城』の監督を務める宮崎駿氏にバトンが渡されたのだが、この時テレビコンテンツとしての『ルパン三世』は、価値観から世界観から、人物像からターゲット層まで、全てを緊急苦肉の策で、大刷新改革をおこなっていたのだ。

刷新改革後のルパンファミリーは『カリ城』どおりだが(特記するならば、宮崎1stルパン後期の不二子は、まさに「ルパンとの新婚新妻」状態であった点が『カリ城(不二子は古女房状態)』と異なっている)、では、宮崎改革の前はどうだったのか。宮崎改革前夜は、どのような混乱があったのか。その経緯と流れを、筆者が観てきた中で一番秀逸なルパン三世解析書である『ルパン三世 まぼろしのルパン帝国』は、正確な資料と証言に基づいて、緻密に考古学的検証をおこなっている。

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ルパンと不二子の関係は、ステレオタイプの騙し合いではない

時系列的に考察するならば、『ルパン三世』という映像コンテンツの企画の発端はどこにあったのか。
そしてそれは、どのような出資者の同意を得て、どのような経過をたどり、どんな人材を集めて作品として結実していったのか。筆者の高橋実氏は、丁寧にその整理整頓をおこなって見せる。
大隅監督更迭のタイミングの読み解き。
それと前後した、宮崎監督の参入と、大隅コンテと完成映像の違い(第12話『誰が最後に笑ったか』註・表記上は演出は大隅監督のみとなっている)や、そこを契機にした、ルパンファミリーの構造変化とストラクチュアの再構築を、作品を映像状態から沈着冷静に因数分解することで、一つ一つの筆者仮説に、裏付けを与える手法で、エピソード単位で全23話を評論しているのが本書なのである。

90年代のこの時期に押し寄せていた「俺流の解釈や研究学を、作品内から読み取りながら論を構築する批評観」と、2000年代にスタンダードになっていく「関係者証言や残存資料を冷静に収集分析し、メタ的に作品の存在意義や価値を考察する」が、まさに『ルパン三世』というアニメに対して、高次元で融合した読み応えのある一冊だとはいえるだろう。

確かに、本書ではいささか高橋氏の思い込みの強さが漏れてしまう論調もある。
しかし、例えば1stシリーズで誰もが最高傑作と評する第2話『魔術師と呼ばれた男』を、不二子を巡る白乾児とルパンの対決の物語ではなく、ルパンを巡る不二子と次元の物語であって、白乾児は添え物の道化師に過ぎなかったのだという斬新な切り口も、高橋氏が指摘するように、劇中でなぜか何度も言及される「ルパンのタコ嫌い」と、クライマックスで完成映像から切り取られてしまった海の底、死の世界でのコミカルな描写からの救出劇にタコが絡む展開などへの解析を読んでいると、なるほどと唸らせられるものがある。

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『魔術師と呼ばれた男』 より、ルパンと白乾児

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