そこでは当然「子ども向け娯楽作品なのであるから、最後にはバトルがなければ作品自体が成立しない」という、もっともな意見もあるわけであるが、ならばそもそも、セブンとバトルをするに相応しいだけの、体力ポテンシャルを持った宇宙人を、登場させればいいはずなのに、その単純図式は初期セブンには、あまりみられないのである。

もちろん、そこには前作『ウルトラマン』とは、ルックスも見せ場も戦闘演出も変えたいという、特撮現場や演出スタッフの、向上心的な意図があったのは明白なわけだが、その一方でやはり、戦争の持つ残酷な現実感を感じてしまうのも事実なのだ。

戦争は、そもそも指揮レベルで明白な戦略が練られていて、そこでは当然、自軍の被害をいかにして、最小レベルでおさえるかがポイントである。

人的被害を最小限におさえて、最大級の戦果を上げるためにこそ、戦略という思想があるのだ。

しかし戦争という行為には、当然勝ち負けがあるわけで、戦っている双方の戦略が、お互いに成功することはあり得ない。

戦略が劣っていた側が負けていく過程では、実際問題としてはどんどんと現状応対に追われ、やがて、当初は想定していなかったやけっぱちにも近い、戦略思想もない破れかぶれの対応を迫られるときがくるものなのだ。

それは例えば、太平洋戦争においては、矮小な国土しかないはずの日本が、本土決戦を想定しなければいけなかった状況そのものだったりしただろう。

戦線の後方で、指揮を執るはずの指揮官が、自ら戦場の前線に赴くことがあれば、それは自軍の戦略が崩壊していることを表す。

肉体的には完全にセブンに劣るだろう宇宙人が、巨大化して戦線に現れた時、それはもはや万策尽きた敗軍の将の姿であり、そこにはやはり、戦争の持つ悲壮感を感じさせてしまうのである。

金城氏は、その構図を回避する為に、「宇宙人&宇宙怪獣」というセットを生み出したのかもしれないが、むしろそのフォーマットは、更なる踏み込みで「兵器としての怪獣」描写を加速させることになり、他作家達の手によって様々な方向から「ウルトラセブン=戦争絵巻」という図式が暴かれていく。

金城氏がウルトラマン以上に、セブンに自身を重ね合わせていたことは、後年、市川氏や上原氏の談話や作品からも伺えることではあるが、セブンが毎週宇宙人達と戦っていたように、金城氏もまた、セブンのように戦い続けて、そしてやがて疲弊して、疲れ果てていくのである。

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