前回は「市川大河仕事歴 映像文章編Part2」

時として、僕の人生では「それ、よくあるフィクションか、下手な作り話だよね」としか思えない出来事が多々起きる。
それを列挙していっても意味がないので、ここでは割愛するが、僕はギョーカイなりたがりのワナビではないので、会いたい、いつか出会いたいと思った「憧れの人」と出会うのに、コネや他人の力を借りることだけは避けてきた。
当時のリアルタイムでも今でも「業界人なんだから、スターやアイドルに囲まれて毎日を送ってるんでしょう」と言われるが、実はこの業界「それ」をやってしまったら、ある意味「お終い」なのだ。
夜職の世界で風紀(店のスタッフ同士でくっついてしまうこと)並みに「それ」は、「やりたいんだったら、やるのは簡単」だが「やったらお終い」なのである。

前回の続きを簡単に書けば、僕は過労がトリガーになって、体の中の地雷が爆発し、昏倒して意識を失った。
意識を失ってる間に僕は救急で搬送され、精密検査を受けさせられ、僕の体が遺伝子系の血液病であることが判明した。
意識が戻り、主治医からこんこんと病状を伝えられた僕は、言葉を失って俯くしかなかった。

「まぁこの持病とは、しばらく放射線治療で付き合って頂かなければいけませんし、安定してからも一生付き合っていくことになるでしょう。なので、今後は今までのような、肉体労働の激しい現場仕事はあきらめてください」

愕然とするしかなかった。
文字通り、頭の中は真っ白になり、言葉が何も出なかった。
僕はその後、しばらくの期間入院で集中的に放射線治療を受け、それはある意味で人生観が変わるほどに、生きることの意味を考えさせられた。

最初の入院後期、病室に平増氏がやってきた。
似合わない花束を不器用に放り投げて、僕に向けて怒った。

「お前、なに勝手にぶっ倒れてんだよ。なんでこんな形で終わるんだよ。俺がプロデューサーになる時は、お前がチーフから監督に昇進する時だって、一緒に酒飲んで、語り合ってたじゃねぇか」

答える言葉がなかった。
返す言葉がなかった。
この人が泣くことがあるのだと、呑気にそんなことで驚いていた。

「……お前、この先なにやって食っていくんだよ」
「まだ、考えてません……」
「だと思ったよ。最後まで使えねぇ助監だな。一応サ。俺のコネで、日本未公開系洋画のビデオのプレスや、配給側の文章仕事があるんだよ。お前、前々から文章書くの巧かったじゃねぇか。とりあえず、そういう仕事なら病気の体でも働けるだろ。とりあえず、しばらくはそれでしのげ」
「あ……」

ありがとうございますという言葉が、思ったほど素直には出なかった。素直に言ってしまえば、生きてるうちに二度と、この人とは会えなくなるんじゃないかと、そこまでインパクトがあった言葉だった。

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