監督の相米慎二も、脚本の丸山昇一も、ほぼこれがデビュー作となる

 個人的には「80年代日本映画の形と在り方」は、この映画でデビューした相米慎二監督と、脚本家の丸山昇一氏(丸山氏の場合、デビューが一気に三本重なり、この作品とテレビ『探偵物語』(1979年)の第一話『聖女が街にやって来た』と映画『処刑遊戯』(1979年)の、どれが本当の意味でのデビュー作なのか、本人にも分からないらしいが)の作品を初めとして、やはり丸山氏が脚本を書いた『野獣死すべし』(1980年)『ヨコハマBJブルース』(1981年)における、村川透・工藤栄一両氏の、これまでになかったレベルのブレーキロス状態や、長谷川和彦『太陽を盗んだ男』(1979年)大林宣彦『転校生』(1982年)石井聰亙『爆裂都市 BURST CITY』(1982年)川島透『竜二』(1983年)根岸吉太郎『遠雷』(1981年)森田芳光『の・ようなもの』(1981年)等々(既に活躍していた人も含めて)キティフィルム東映セントラル(現・セントラルアーツ)やATG、そして(待ってました!)ディレクターズ・カンパニーといった拠点から次々に「社会と人との繋がり方と、そこで起こる悲喜劇を考察し論じる」という70年代を終えた(通過し終わった)旗手達が、次々に「この次にくるもの」を見せてくれたという記憶と感慨が深い。

 それは一歩間違うと「分かってくれる人だけが、分かってくれればいいや」という、開き直った姿勢でもあり、出資者や配給会社は「デカイ賭け(Long shot)」に巻き込まれてしまうことを示唆している。 そういった方向性での作品上梓は、良い意味で言えば百花繚乱、悪い意味で言えば「分かる人しか分からないマイナー嗜好」という、そういうレベルに陥ってしまうのだが(というか、90年代以降は見事に、深夜アニメ系をはじめとして「そっち側」に陥ってしまった)この時代はむしろ送り手側が、映画黄金期の作品群を観て育てられたからか、「その辺りでの距離感の、致命的な計り間違い」は、そうそう起きていない。

 むしろ「この時代の作品群を、社会に出るタイミングで観た世代」が、あらぬ間違いを起こしてしまったという印象が(あくまで個人的にだけど)強い。

 時代、時代の文化の背景は、前時代への反抗心的リバウンドが築くことが多い。

 そういう前提で俯瞰するならば、上で挙げた「80年代性」の作品が持っていた、フレキシブルな、そしてアナーキーな作風や世界観は、それはやはり、ポジとネガのように「70年代性」と表裏一体であったとも思える。

 「『好き』の本当の反対は『無関心』であり、『憎い』は『好き』と表裏一体」は割と知られた概念ではあるが、そこでの対象を「社会思想」という物に置き換えてみた時、この作品を契機とした、数々の80年代佳作群もそれぞれ決して、「社会」とは縁遠い立ち位置なんかで、箱庭的な作劇などはしていなかったのである。例えるならこの作品に登場する「巨大アドバルーンの鯨」が、「近くに存在している巨大な物なのに、身の回りにしか注意を払えない思春期の子には、見えない、感知できない存在」という意味性で「思春期の子どもにとっての『大人社会』」を象徴していることは、制作当時に丸山氏も相米監督も、そうアナウンスしていた。

 この作品はそうやって「相米視点」から見た「自分達の日常と、見えない明日への不安でイッパイイッパイの思春期達」が、丸山筆によって描かれた「互いがギリギリの接点を見つけあい、不器用なりに懸命に繋がりあおうと模索する」ディティールの連続で成り立っている。

 そこでは、巨大で膨大で、でも間近過ぎる社会(鯨)などが、目に入る余裕すらない。 自分と、自分の視界を占める「誰か」を見つめるだけで精一杯なのだ。

 高度経済成長に浮かれまくった60年代も遠い昔になり、敗北感と終息感と、やるせなさと無力感にさいなまれ続けた70年代も終わりを告げた。

 それでも世代は移り変わり、時代は前へ前へと進んでいく中で、人々は、「僕ら」はどこから始めればいいのか、どこまで戻ればいいのか。どこへ向かって翔んでみせればいいのかを、模索するところから、80年代は再スタートをすることになったのだ。

薬師丸ひろ子も鶴見慎吾も「主演」は初めてだった。

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