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「現代から数十年だけの過去を描くのであっても、それはしっかり『時代劇』であり、細部まで考証してはじめて観客が『その時代』に安心してトリップ出来る」は、邦画では『ALWAYS 三丁目の夕日』(2005年)が、おそらく初めて提示してみせた一つの映像作品のビジネスビジョン(それは決して作家性ではない)であり、「そこ」へ辿り着くにはまだまだ黎明期だった90年代の序盤。

ゼロから画面を築き上げる事が出来るアニメという表現方法であれば、この時代でも『ALWAYS 三丁目の夕日』レベルの時代考証は可能だっただろうと思われるが、スタッフの根柢姿勢から、徹底した拘りも覚悟も資料性も、結果的に残念なレベルしか感じられなかった、この完成作品から逆算考察すると、つくづく残念であるとしか書きようがないのも本音である。

「70年代的なる時代空気の再現性」
ここにおいて、まずOVA版『ワイルド7』の試みは大失敗であったことが前提となる。
本来であれば八百(漫画版初期では彼の名前が本来「ヘボピー」になる予定であった。彼の設定でもある「野球のピッチャー」を野次る時に、70年代ではヘボピーという呼称が、頻繁に使われていた)の背景設定で用いられた「プロ野球の八百長」は、俗に「プロ野球黒い霧事件」と呼ばれて、実際に1969年に発生したものであるし、ヘボピーの「米軍基地を破壊するヒッピー」なる設定も、70年安保なくして成り立たない。

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ワイルドの訓練で痩せたはずのオヤブンも、回想シーンから痩せて描写されていたOVA版

オヤブンがバックボーンに持つ任侠世界のイメージも、60年代末の高倉健主演による、東映任侠映画ブームがバックボーンにあるのも明白だろうし、そうしてワイルド7メンバー全員が、様々な要素で「70年代初頭」を象徴しているのだ。

その時代感覚を無視して作劇を動かすのは、そもそも企画として無理があったと言わざるを得ない。
続く後編では、その他の「ディティール面で致命的にやらかしてしまったミス」をあげていこう。

後編『OVA版『ワイルド7』歴史を黒く塗りつぶせ!【後編】』へ続く

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