時空を超えるホモとホモ

あとね! これ、大事な要素だから書いておくとね。この映画を大好きな大河さんには一切「その気」はないんですけどね。この映画、どう弁護しても思い切り「ホモ映画」なんですよ、そこの腐女子のお嬢さん!
それもね「カラ松×十四松」みたいなイマドキ801系じゃなくて、ガチホモ中年オヤジ『さぶ』系ホモ臭が、全編に溢れかえっているのだ!
なにせ、まずは伊庭義明と長尾平三景虎という、時代を超えた漢二人の、交流と友情が深まるプロセスを描くのが、ジョー山中の歌をバックに「砂浜で、お互いの服と武器を交換し合って果し合いをした挙句にきゃっきゃうふふ」だったり「裸でふんどし一つで、浜辺でキャッキャウフフ」であったり「裸でふんどし一つで海岸で、荒ぶる波を並んで眺めて天下を語ってキャッキャウフフ」だったりっていう!

いやいやいやいや! 劇中戦国武将の夏八木勲氏はともかく、千葉真一、お前は昭和からタイムスリップしてきた現代人なんだから、下着はブリーフかトランクスを穿けよ! っていうか、中年オヤジが二人して、下着一つで全裸で交流を深め、友情を育むって、それもう絶対に「SF」でも「アクション」でもない上に、無理矢理追加注文された「青春映画」ですらないよね!? 斉藤監督、この期に及んで何を新たに謎の新要素を追加してんすか!
ただでさえ二郎のラーメンみたいに、限度超えて盛り付け過ぎな映画なのに、ここにきてなにをまた、どう考えても不要な「ホモ要素」とか、追加トッピングしてるの!? っていうか、ここでもやっぱりカレーをかけるんですか!? どんなすき焼きでも大盛ラーメンでも、カレーをかけた時点で、その料理はカレーになるんだって、分かろうよ、角川春樹
結果「名優・夏八木勲氏が演じる、名将・上杉謙信」が、誰がどこから見ても「原始人のホモ」になっちゃってるの! この映画!

っていうか、ホモ要素はそこだけで主張しているわけじゃない。
映画版では、原作にはなかった「物語以前、クーデターを起こそうとして、伊庭に内偵されて阻止された一派」がいたのだが、イマドキの自衛隊でクーデターってなによ、ってツッコむ前に、そのリーダーの渡瀬恒彦氏(『皇帝のいない八月』(1978年)から一年経ってないこの時点で、渡瀬氏って「悪役俳優」から「クーデターリーダー俳優」へ成長っていう、すげぇレアな立ち位置を確保してたんだなぁオイ)、が戦国時代で再び伊庭達に対して反抗して、今度はなんちゅうか、クーデターっていうよりは、甘えてスネたガキの家出みたいなことになるんだけど、その反伊庭派が占拠した哨戒艇を鎮圧するために、伊庭こと千葉真一が、本当にヘリに吊られて空を飛び、もう、前か後か回転してるのかすらの自覚がないままマシンガンを撃ちまくるという、なんかすごいんだけど、なぜそんなすごいことをしなければいけないのか、誰にも答えられない展開!(註・基本的にこの映画は、そういう要素で満ち足りています)

なぜか木を彫った玩具の拳銃で、千葉真一を狙撃(?)しまくる渡瀬恒彦


これを千葉真一とJACは「映画に命を懸けた逸話」として語り継いでいるんだけど、いや「そのシーン」撮影も空撮な上に、吊られてる千葉ちゃんが揺れ動きすぎ(ヘリに吊られてるんだからしょうがない)で、要するに何が写っているのかもよくわからない凄さであり、それは決して観客にとってありがたい凄さでもなんでもない!
……で、肝心のホモポイントが、囮になった千葉ちゃん伊庭のおかげで、自衛隊随一のスナイパーによって、反伊庭一派は、髪の毛をリーゼントに固めた角野卓造(!?)を含め全員狙撃されて死ぬんだけど。
死ぬ間際の渡瀬恒彦氏の演技と、その死を見つめる伊庭の演技が、あきらかにホモ同士の「それ」なのね。
狙撃直前、中康次氏演じる自衛隊一のスナイパー・三村が、スコープを覗きながら仲間の県に言う。

三村「矢野陸士長は、伊庭三尉のこと好きなんじゃないのかな」
県「え……?」
三村「結局は同じ種類の人間なんだよ、あの二人は」
県「同じ種類って……」
三村「平和な世界じゃ息のつまる人間さ……」

角川文庫『シナリオ 戦国自衛隊』鎌田敏夫

そして、三村による狙撃後、哨戒艇に降り立つ千葉の伊庭。

ヘリから哨戒艇に降り立つ伊庭。
伊庭、三人の死体を確かめる。
矢野だけが、うっすらと眼をあけている。
虫の息である。
唇が震えている。
伊庭が拳銃を出す。
矢野がフッと伊庭を見る。
その眼が笑ったように見える。
伊庭、撃つ。
テーマ曲2が入る――
県と三村、シンとして見てる。
伊庭、じっと矢野を見ている。

角川文庫『シナリオ 戦国自衛隊』鎌田敏夫

なんちゅうか、ここにはある意味「自衛隊のクーデター=三島由紀夫=ホモ」みたいな、無理矢理な紐づけ的差別感覚が垣間見えて、ちょっと今観ると面白くはあるんだけど。

ホモ的要素でいうならあと一人、原作ではメガネくん的役割だった県一士を、映画では江藤潤氏が演じるんだけど、それこそホラ、この映画って、鎌田脚本がどんなに青春群像劇にしようとも、斉藤監督がどれだけがんばろうとも、しょせんはやっぱり「千葉真一による、千葉真一のための、千葉真一が輝く、千葉真一映画」でしかないから、基本的に「全戦国時代民は原始人 昭和自衛隊員は千葉真一脳」で、二分化されて固定されてしまっているわけであって、そうなるともう、県一人がまともな事を言っているんだけど、それがこの映画の観客に最後に遺された世間一般常識最終ラインなんだけど、劇中では県が何か口を挟むたびに、むしろウザい、おかしいとかなっちゃうんだよね。
だってエンドロール間近のクライマックス。もう、やるだけのことはやったから、昭和へ戻りたいという残り数名の自衛隊員達に向かっての、伊庭と県の会話。

伊庭「指揮官は俺だ、俺が京へ向かうと言えば、どんなことをしてでも一緒に来させる。指揮官の命令のきけぬ奴は、この場で撃つ」
県、静かな目で伊庭を見つめている。
県「あなたは昭和の時代に戻りたくないんですね、伊庭三尉」
伊庭「何?」
県「この時代で戦っていたいんですね。初めからそうなんですね」
伊庭「昭和の時代に戻って何になる……。あんなぬるま湯につかった平和な時代にもどって何になる……武器を持っても戦えない時代に戻って何になるんだ!……息のつまりそうな時代に戻って何になるんだ!」
一同「……」
伊庭「そんな時代よりもここで戦おうと思わないか! 思うまま本心のままに生きようと思わないか! ここではそれが出来る! ここが男の生きる場所だと思わないか!」

角川文庫『シナリオ 戦国自衛隊』鎌田敏夫

もうね、これもう、子どものギャクギレですやん……。案の定、その直後に部下の一人から「思いませんよそんなこと!」とかキレられてるし(笑)
ここでの千葉の伊庭は、言ってることが、食べちゃいけない冷蔵庫のシュークリーム食っちゃった幼稚園児みたいで、もうこれ、逆の意味で青春にまで、精神年齢が届いてないから青春物として成り立ってないよね感が満載で。

で、それでもここで、仲間相手に発砲までしちゃって孤立した(もうこの際、させておけばいいのに)千葉の伊庭を、静かになだめて、そのガキの意地みたいなものを受け入れてあげようという県の、優しさっていうか、友情でもない、これはこれでホモだよなぁと思うわけです。
なにせ、この映画、一応、小野みゆき、岡田奈々、薬師丸ひろ子、ってとりあえず女優陣も出てくるんだけど、確信犯的に「わざと」女性登場人物には一言も台詞あたえてないのね。

あと、川中島の戦いの直前に、なんちゅうか、戦国時代だからなのか、昭和の映画だからなのか、自衛隊員が村の女性に“夜這い”をかけるシーンが出てくるんだけど、そこで自衛隊員の三浦洋一が夜這い先で出くわした、さえない村の男(佐藤蛾二郎)と、翌日川中島の戦いで、敵味方に分かれて出っくわすんだけど、どこか憎めなかったりとか、「夜這いというガジェット」に対して、わざわざそういう「男同士のエピソード」を入れてくるんだけど。

これってもう、角川春樹・千葉真一ラインで、この映画をホモ映画にする確信犯的なたくらみがあったか、「青春映画に仕上げてくれ」と言われた鎌田・斉藤コンビにとって、青春って女性の存在が皆無の経験だったのか、どっちかしか解釈できないわけで、いくらなんでも後者はないよねって思う時、消去法以前に「前者だったら、当然にあり得る」と、思わせてしまう要素に満ち溢れている映画『戦国自衛隊』

そんな「髪型オールフリー(劇中、ムッシュかまやつが“いつもの髪型”で自衛隊員役で出演しているけど、冷静に考えて、そんなに防衛庁って、緩やかな組織じゃねぇだろ的な意味で)自衛隊員ホモ群像・原始人戦国時代人殺戮千葉真一大暴れ、SFとか戦国とか自衛隊とかどうでもいいよね映画」のクライマックス。
いわゆる「川中島の戦い」が、もうとにかく、良い意味でも悪い意味でも空前絶後でものすご過ぎる面白さ!
戦国VS自衛隊の、想定しうるシチュエーションとアクションの全てが、ここに極まれりで次から次へと、尺として40分間の間、延々と展開されるのだ!

この長髪じゃ、自衛隊どころかコンビニのバイトも合格しませんよ!ムッシュかまやつさん!

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

おすすめの記事