我々現代を生きる日本人が本話を観て、あらためて気付かされるのは、本編内でギャング・ダイヤモンドキックの手配書などが、英語表記されていたりする部分である。

これは初期のウルトラシリーズが、輸出を想定して制作されているからで、その高額な制作費を回収するためには、国内放映権やマーチャンダイジングだけでは、成り立たなかった当時の台所事情が窺い知れる。

初期ウルトラシリーズに流れていた無国籍的な雰囲気は、国外セールス事情からも来ているものであって、しかしそれを崩してしまうのは、いつものごとく、実相寺昭雄監督なのである(笑)

実相寺監督は、『ウルトラセブン』(1967年)『狙われた街』『円盤が来た』などで、当時禁則事項とされていた「畳の日本家屋」を、わざと舞台にすることで、社内で物議をかもし出させたりしていた。

今回紹介する話を担当した演出家は、東宝生え抜きの野長瀬三摩地監督。

『ウルトラQ』(1966年)『ウルトラマン』(1966年)『ウルトラセブン』の、いわゆる第一期ウルトラにおける野長瀬監督の演出本数は22本で、円谷一監督の21本を抜いて、最多本数を記録している。

野長瀬監督は、清和天皇の皇子を祖とする、賜姓皇族である清和源氏の末裔である、野長瀬氏一族の一人。

そんな野長瀬監督は、戦後50年代の東宝で助監督として活躍していた。

その最たるものは『蜘蛛巣城』(1957年)『どん底』(1957年)『隠し砦の三悪人』(1958年)等の、世界に冠たる黒澤明監督映画における助監督業務であろう。

その後、野長瀬監督は『日本一の色男』『香港クレージー作戦』(共に1963年)『無責任遊侠伝』(1964年)等の、全盛期のクレージーキャッツ映画や、『社長洋行記』(1962年)『社長漫遊記』(1963年)などの、東宝ドル箱だった社長シリーズなどの助監督を務める傍らで、『モスラ』(1961年)の助監督業務で「世界のクロサワ」と並ぶ、もう一人の邦画界の至宝・円谷英二監督と出会う。

東宝黄金期の娯楽の形を、いくつも脇でサポートし続けてきた野長瀬監督は、やがて円谷プロに参加して、『ウルトラQ』では『ペギラが来た!』『東京氷河期』のペギラ2部作や、円谷一監督の『ガラダマ』の続編である『ガラモンの逆襲』、そして『南海の怒り』『ゴーガの像』等々、脚本家を選ぶことなく職人技に徹して、ウルトラQの秀逸なアンソロジー群を、様々に撮りわけていった。

特に、自身も脚本に参加した『海底原人ラゴン』や、故・虎見邦男氏脚本の『バルンガ』などは、SF短編としてハイクオリティな作劇であり、ウルトラQ=怪獣物ではないという独特の質感を、シリーズ全体に与えていた。

さすが黒澤・円谷に従事しただけあって、野長瀬監督の特色は、アングル・構図の切り取り方のダイナミズムと、合成の効果的な見せ方にある。

『ウルトラQ』の『バルンガ』において拘ってみせた、「日常風景の空の中に佇む異形」という見せかたや、同じ『ウルトラQ』『南海の怒り』での、人物とミニチュアを同一カットで演出するジオラマ的な作りは、本作『ウルトラマン』でも健在で、『大爆発五秒前』でのラゴンは、そもそもが等身大のキャラであるにも関わらず、野長瀬監督の合成センスの良さで、しっかりと30mの巨人として描写されていた。

一つの切り取った風景の中に、そこに登場する全ての要素を入れ込んで、パノラマチックな画面を構成する手法は、これはもちろん、黒澤・円谷的な典型的映画手法であるわけだが、その野長瀬監督の特色は、次作『ウルトラセブン』の『緑の恐怖』『湖のひみつ』などで、ピークに達することになる。

野長瀬監督が誰よりも、東宝的ダイナミズムを発揮していたことは、自身自ら「野長瀬版ゴジラを撮りたかった」と述べた、ウルトラQのペギラ2部作を見れば、それは誰の目にも明らかであって、ペギラ2部作は、その35mmフィルムという素材がかもし出す質感もあわせて、テレビ画面には収まりきれない迫力を展開させていた。

その合成センス・パノラマ構図は、本話でももちろん健在であり、パトカーなどの小道具を巧みに合成に使い、ゲスラの巨大感を存分に表現した上で、ウルトラマンとの決戦では、港湾地帯のセットを引きで写すことで、巨大な生物同士がおりなすバトルの魅力を存分に引き出していた。

野長瀬監督は、かねてから「ヒーローは完全無欠であるべき」と考えており、野長瀬監督の担当する話は、いつでもヒーローへの全幅の信頼と、揺ぎ無い強さが、画面から滲み出ていた。

それゆえだろうか。

野長瀬監督のヒーロー完璧主義を語る、有名なエピソードがある。

実相寺昭雄監督の自伝的小説を原作に、佐々木守氏が脚本化したドラマ『ウルトラマンをつくった男たち 月の林に星の船』(1989年)では、三上博史が演じた実相寺(吉良)が、スカイドンの話で、ハヤタにスプーンを持たせたことに激怒するのは、飯島敏宏監督がモデルの、石田純一演ずる井沢だが、実際に当時怒り心頭で怒鳴り込みに来たのは、実は野長瀬監督なのだ。

その野長瀬監督を説得したのは、当時円谷文芸部の長であった金城哲夫だったという。

野長瀬監督にしてみれば、芸術家気取りの若手テレビディレクターが、完全無欠のヒーローたるウルトラマンにお笑いじみた演出をするのは、我慢がならなかったのかもしれない。

また、『ウルトラマン』と平行して、制作・放映されていた『快獣ブースカ』(1966年)では、市川森一上原正三が共筆した最終回『さよならブースカ』を含む三本を演出している。

野長瀬監督は、第二期はウルトラから離れるが、その後も他社作品の『メガロマン』(1979年)『円盤戦争バンキッド』(1976年)などの子ども番組で、その職人的娯楽映画気質の手腕を発揮し続け、復活した実写ウルトラの『ウルトラマン80』(1980年)ではウルトラに復帰して、石堂淑朗氏と組んで『バルタン星人の限りなきチャレンジ魂』等を監督していた。

そんな野長瀬監督も、世界が21世紀を迎えるのを待たずして、1996年5月23日にお亡くなりになった。

享年71歳であった。

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