平成ガメラシリーズでは、常にシリーズの過去作で発生した被害や破壊跡が、復興しきれないまま描かれていた(シリーズ2作目でさりげなく写りこむ、初作で破壊されたままの東京タワー等)。
しかしそのリアリズムは、そうしてシリーズが進み続ければやがては、いずれ日本全土がガメラと敵怪獣によって破壊しつくされて、全てが滅びてしまう可能性を示唆している。
実際は平成ガメラシリーズは、事実上3作(後述するが、4作目以降は迷走する)で終了。
そのリアリズムへの不安は杞憂に終わるのだが、逆に平成ガメラシリーズの自衛隊は、撮影が実際の自衛隊の協力下にあるからか、劇中では一切、非現実的兵器がそこに登場することはなく、それは一見リアリズムであるかのようにも見えるが、冷静に考えてみると、「ガメラや怪獣に襲われる危険性が既知で、常にその危険が隣り合わせで存在してるのに、全くなんの事前対策もとらない、政府と防衛庁の無能さ」を克明にしてしまっているのである(いや、それもそれである意味「究極のリアル」なのか?)。

また(冷静に考えれば、そもそも共生必然性すら希薄な)レギオンと草体という、「植物と怪物のコラボレート」というコンセプト自体も、既に平成ゴジラシリーズが『ゴジラvsビオランテ』で、良質なアイディアを活かしきれない未消化状態で一度敗北しているテーマだけに、平成ガメラトリオは、レギオンなる新たなる概念キャラの創生に、よりいっそう力を込めたというのもあるのだろう。

「少女と怪獣」というテーマも、こちらも平成ゴジラシリーズにおいても、三枝未希なる「ゴジラと共鳴する少女」は先に登場してシリーズに常に存在している。
だが三枝未希の場合は映画がテーマをもたないせいで、設定も存在感もご都合主義のまま、ただの「神秘的っぽさをニュアンスで持つ、事実上はただのゴジラ出現レーダー」であり、その存在意義はないに等しく、だからこそ金子&伊藤の平成ガメラコンビは、三枝未希へのアンチテーゼとして、藤谷文子演ずる草薙浅黄という少女ヒロインをシリーズの核に設定したのかもしれない。
確かに人間という生き物を、老若男女で分割していくと、「少女」という存在は一番脆弱で未熟な存在である。
これを、巨大な存在の怪獣と一対一で対比させ、そこで意思を交錯させるという構造の着想は、確かに怪獣好きする作家やクリエイターからすれば、魅力ある設定になるだろう。しかしそれは、ともすれば安っぽい「セカイ系」のアニメと同レベルに陥ってしまう。

実際、ガメラシリーズは、次の第三作『ガメラ3 邪神覚醒』(1999年)において、その「少女と怪獣」というテーマにのめりこみすぎたドラマを展開した結果、およそ世間の一般人が白眼視レベルで想起する「セカイ系深夜アニメ」っぽく変質し、一部のマニア層からは更なる支持を受けながらも、一般層からは見放された結果、その後、シリーズは目を覆いたくなるような「内ゲバ」状態に突入しシリーズが分岐し、ガメラシリーズについて語られている、ネットの解説等をパッと読んだだけでは、『ガメラ3 邪神覚醒』の次は、『小さき勇者たち~ガメラ~』(2006年)『駕瞑羅(ガメラ)4 真実』(2003年)の、どちらが正規続編なのか分からないという、困った末路を辿ってしまったのである(これに関してはもちろん大前提として、大映角川の営業権譲渡問題による、体制変更が大きく関与しているのではあるが)。

誰もが知ってるドイツの哲学者、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェの有名な言葉に『怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ』があるが、平成ガメラシリーズは、ギャオスと戦うのでもなく、レギオンと戦うのでもなく「『平成ゴジラシリーズ』という仮想怪物」と戦うことに、のめり込み過ぎてしまい、結局自らもまた、鏡像のように「怪物」に成り果ててしまったのである。
アーケードやコンシューマーのゲームがそうであるように、漫画がそうであるように、ライトノベルがそうであるように、アイドルグループの戦略展開がそうであるように、「そこで心酔してくれた、声の大きな一部のマニア」達の声にばかり耳を傾けた結果、平成ガメラシリーズも結局は「一見さんお断り」的作風へとズブズブはまり込んでいき、金子&伊藤&樋口トリオもまた、自分達が創造してみせた「ガメラの存在する、創造の中の想像の日本」という箱庭の奥へ奥へと向かうのである。

そういう幾多の意味も含めて、この映画をあくまで、一部のマニアに向けたコンテンツとしてではなく、広く一般に向かって放たれた、一本の映画作品として評するのであれば、そこで過剰なまでに強調された「自衛隊礼賛映画」としての側面がもたらした不自然さについても語らねばならない。

そう「不自然」なのだ。
この映画で登場する自衛隊員は、一人残らず粋でプロフェッショナルな「理想の軍人像」で成り立っていて、そこで口にする「今度一杯おごらせてください」「今度は守ろうや」等という台詞や、「レギオンを倒し去り行くガメラに、個々に敬礼する自衛隊員達」という描写など、必要以上に、鼻につくレベルでの「自衛隊ってなんて格好良いんだ」演出が、怒涛のように連続して展開されるのである。

「今度は守ろうや」

それは「貧乏予算映画ゆえに、自衛隊に持ち出し協力を頼んだから」という理由からか、もしくは平成ガメラ第一作で防衛庁・自衛隊「怪獣映画に協力することは、国民に、自衛隊に対する良い印象を与える良い機会だ」と解釈したからか、映画側も「そこ」を飲み込めば、より自衛隊側が率先して協力してくれるからか、どちらにしてもこの映画では。全編「自衛隊と、そこで頑張る自衛隊員達は一人残らず、粋で勇気があって有能です」アピールに溢れている。いや、溢れすぎている。

仮に自衛隊が、世界中の戦場で連戦連勝を繰り返して、世界のどの戦地へ派遣されても「おい見ろよ。奴等が噂のジエイタイだぜ!」と噂されるような組織であるならともかく、ちょっとこの映画における自衛隊は、リアルに描こうとし過ぎて、逆に非現実的過ぎるレベルに陥っているのである。

確かに、ワケの分からない荒唐無稽なメカゴジラだのモゲラだのを乗りこなし、ゴジラと戦う、平成ゴジラシリーズの東宝自衛隊(まぁもっとも、こっちは既に『Gフォース』なる、ある意味スーパー戦隊になっていて、既に自衛隊ではないのかもしれないが)も、酷いといえば酷いのではあるが、こちらの『ガメラシリーズ』での自衛隊の描かれ方はどうかといえば、地震や災害が相手ならばともかく、現実社会においては福島原発の事故相手でさえ「あの程度」しか機能しないはずの自衛隊という組織が、何故か大国の軍隊相手の戦争などとは、比較にならないレベルの脅威であるはずの「怪獣登場」という想像を絶した未曾有の危機に対して、現用兵器と、現状の組織編成と命令系統だけで、あそこまで有能に機能し、見事な統制指揮下で有効に対応してしまえるというのも、これはこれで「ちょっと自衛隊宣伝が過ぎやしないですかい?」と突っ込まざるを得ない。
(例を挙げるのであれば、幼態ギャオスや群体レギオンに銃火器や現用兵器が有効なのは、これはまだ理解できるとして、ガメラですら一敗を喫したレギオンの最終形態に対して、ただの戦車砲が見事に効果をあげるというのは、少し失笑するレベルになっている)

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