それでもまだ、今挙げたような明確なオマージュやパロディであれば、原典との比較論などの解釈遊びも可能であるが、この映画には他にも面白い(などと本来済ませるべきではないのだが)「偶然の一致」が、いくつか存在する。
それは例えば、この『ガメラ2 レギオン襲来』クライマックスで描かれた「死んでいるとしか思えないガメラの前に子ども達が集まり、そこでの子ども達の必死の祈りが通じたかのように、ガメラが蘇える」シークエンスが、この映画公開の年にテレビで放映されていた『ウルトラマンティガ』(1996年)の最終回『輝けるものたちへ』のクライマックスでの「子ども達が集まり、ティガへ祈りをこめるシーン」と、酷似していることも一つ。
そんなクライマックスは漫画でもよくあることさと、割り切ることも可能ではあるし、この場合、どちらかがどちらかを真似た、パクッたという問題でもない。
逆に「あっちもこっちも同じ発想しか出来ない、作品を作る側の限界の問題」である。

同じことが、本作での敵怪獣・レギオンの設定やデザインにも言える。
レギオンのデザインや造形(造形は、あえて怪獣造形をメインにしている、クリエイターではなく、日本唯一に近い「特殊メイクアーティスト」の原口智生を起用している)や、演出や描写等で金子&伊藤&樋口トリオが目指した「今までの怪獣映画には出てこなかった怪獣を」という心意気は充分感じさせてくれるし、そこで緻密に「電磁波」や「共生」「シリコン」などをキーワードにして、細やかに、完璧に練りこまれたレギオンの生態システム等も感心させられるが、問題はもっと根本的なところにある。

それは、平成ゴジラシリーズとの「奇妙な共鳴」である。
『ガメラ 大怪獣空中決戦』と『ガメラ2 レギオン襲来』の間に東宝で製作された『ゴジラ対デストロイア』(1995年)に登場する敵怪獣・デストロイアは、レギオンと似たように、まず人間と同等の大きさの個体が群隊で登場し、クライマックスでは、巨大な多足節足動物状態で暴れまわるという(そのデザインシルエットも併せて)、極めてレギオンに近い描写をされている。

『ガメラ2 レギオン襲来』レギオン
『ゴジラ対デストロイア』デストロイア


怪獣映画は、ただでさえ準備期間を要するコンテンツだけに、なまじ公開年月だけを基準に、どちらがどちらを真似したとは決め付け難いものがあるが、レギオンがデストロイアを真似たのか、それとも、デストロイアが先に企画段階のレギオンを真似たのか、もしくは、時代の風潮や要請が「こういう怪獣」を連鎖偶発的に生み出したのか。
そのどれでもいいが、しかしその一致は、「原因」がどれであっても、やはり創造の貧困を証明することになるのである。(ちなみにこの「ワンパターンのボス怪獣デザインの連鎖」はその後も続いて『ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟』(2006年)に登場したラスボス怪獣のUキラーザウルスネオや、『ウルトラマンサーガ』(2012年)に登場したハイパーゼットン等、ある種デザインの定型として定着してしまった感が一時期あった)

『ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟』Uキラーザウルスネオ
『ウルトラマンサーガ』ハイパーゼットン

しかし、そういった「偶然の一致」とは別次元で、平成ガメラシリーズが、常に平成ゴジラシリーズを仮想的として念頭に置いていたことは、これはもはや、疑う余地もないだろう事実である。

そこでまず、分かりやすい例を挙げるのであるなら「怪獣が現れ続ける作品内世界と、映画を観る観客の存在する世界のパラレル度」への処理対応の姿勢である。
怪獣は、現れればそこで街を怖し、都市を破壊する描写は必須で、それが怪獣映画の見せ場にもなるし、売り要素にもなる。
また作品がシリーズ化し、そこで舞台になる日本という社会が、常時怪獣から襲われる危険性を孕むことになれば、当然、そこで怪獣を撃退するべき(基本は自衛隊)人間側もある程度学習し、それ相応の備えを持つことになる方が自然である。
しかし、そういった「状況」が、映画がシリーズ化することで加速し続けていくと、どんどん「観客が帰属している現実の日本社会」との距離は離れていってしまう。
平成ゴジラシリーズを例に挙げるのであれば、ゴジラは毎回(昭和時代がそうであったように)日本各地に観光地めぐりのように現れては、そこを主戦場にして、次々とスーパー戦隊チックなメカをインフレ装備していく自衛隊(Gフォース)と、ゲーム感覚の戦いに興じては去って行き、そこでの被害は、次回作では決して語られることがなくなっていったが、(「初めての次回作」である『ゴジラvsビオランテ』(1989年)冒頭では少し描写された)平成ガメラシリーズは、そういった平成ゴジラシリーズの、常に逆を、逆を行き続けた。

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