その新聞広告は、松竹京都撮影所の事務所の上に、これ見よがしに置かれていた。「人間の証明・シナリオ募集」という文字の大きさよりも、僕はその賞金の多額さに、びっくり仰天した。過去、何度も、大きな映画会社がシナリオの一般公募を行ったことはあるけれど、賞金はまるで小さく、せいぜい百万円が限度だったから……。しかし、その応募規約を見ているうちに、僕は次第に不機嫌になった。規約には「プロ・アマを問わず」とあるではないか。これは、プロにとって最大の侮辱である。現在活躍中のシナリオ・ライターを認めず、「やれるものならやってみろ」という、プロデューサーからシナリオ・ライターへの挑戦状ではないか。プロデューサーの名は、角川春樹とあった。

シナリオ 人間の証明 あとがき

ここで松山氏は、その角川戦略に憤慨し、呆れてみせてもいる。しかし、次第に松山氏は奮起する。

いつかシナリオ募集の件は忘れていたが、「プロ・アマを問わず」という挑戦的な文字だけは脳裏に残っていて、「俺も古くなった」から、一ぺん「車検」を受けなければならないなと思い始めていた。

シナリオ 人間の証明 あとがき

と、心境の変化を記している。要するに、松山氏は、まんまと角川春樹の挑発に「乗った」のか「乗せられてしまった」のか、一念発起「やる気を出して」しまったのだ。

元々、脚本家としてのポテンシャルはもちろんプロ級なので高い松山氏である。その松山氏が、『人間の証明』を脚本化する際に、どんな向き合い方をしたのか。それもその文庫のあとがきに書かれてあった。

帰京すると、僕は原作を、さらに二冊買い求め、作者には失礼だが、二冊をバラバラにくずし、各人物ごとに区分けし、原作者が、どの人物に、どれだけの頁数を割き、どこに重点を置いたかを検討した。原作者が最も力をこめて書いた終章は、ほとんど、主人公のモノローグで埋まり、映像化は実に難しい。しかも、それを、いくつかに切り刻んで、シナリオの随所に挿入し、一斉にクライマックスへなだれこむこともできないような、言ってみれば脚色不可能な原作である。第一稿は四百五十枚を越えた。応募規定には三百枚前後とある。切り捨て作業に入ったのは締め切りの一週間前、原作を大きくねじまげたのは、主人公の刑事をニューヨークへと派遣したことだけである。ラストは、原作の味をそのまま皿にのせ、あとは、演出家の仕事だと割り切った。ここだけで、よくある「小説原作映画の、脚本化プロセスにおける変化の謎解き」が出来るようになっている。それこそ、緻密な推理小説の謎解きのように

シナリオ 人間の証明 あとがき

松山氏は、かように原作小説を、物理的に切り取り並び替え、映画用脚本に再構成しなおしたのだ。そもそもの、森村小説の構造は、これは松本清張氏の作品にも言えることなのだが、とても精密な「本格推理」で成り立っている。

筆者は、推理文壇を「本格派」「社会派」に分けたのは、80年代以降のテレビのロボットアニメを、『機動戦士ガンダム』(1979年)を境に、「スーパーロボット派」「リアルロボット派」に分けた「気分」と、同じ受け手側の問題だと思っている。改めて見直せば、最初のガンダムだって、どんな攻撃も受け付けない装甲と、敵を一撃で倒す必殺技のようなビームライフルを持っているのであり、実は根幹は『マジンガーZ』(1972年)となんら変わりはないのだ。

それと同じように「社会派推理」も、例えば松本清張氏の『点と線』も、この『人間の証明』もそうであるように、ダイイングメッセージやフーダニットといった、本格推理と同じ要素がちゃんと用意されていて、あくまでその謎を解明して真実にたどり着くまでの過程と、そこで描かれるテーマが「現代社会的にリアル」であるという、それだけの違いなのである。なので、この作品もそもそも(それこそテレビ版を撮った恩地監督がメインで演出をした、大映ドラマ『赤い』シリーズのように)物語冒頭では、無関係に見えた事件や登場人物同士が、偶然偶然、また偶然で、どんどん関係が繋がっていき、最終的には複雑怪奇な、全ての登場人物のバックボーンが繋がる、現実ではありえない構造の中で、そんな非現実的な構造でしか起きなかっただろう事件の終末を、現実社会を討つテーマとして掲げているのが「社会派推理」の本質なのである。

実際の、小説原作と映画版の違いや一致は、これから観る、読むだろう人がそれぞれ確かめればいいという前提で、先ほどの松山氏の、文章の続きを読んでみよう。

映画の歴史。はじまって以来、作品は何千本も何万本も出来たけれど、シナリオ通りに出来た映画は一本もない。シナリオは、映画製作の一部分であって、完成した創作物ではなく、独立して歩くことは出来ないものだと、僕は思っている。

シナリオ 人間の証明 あとがき

これは、脚本家・松山善三氏の稔侍でもあり、シナリオを文庫化しようとする角川書店への、痛烈な皮肉でもあるのだろう。最後に松山氏は、シナリオ文庫版のあとがきを、こう締めくくっている。

シナリオの決定稿は、映画の完成と同時に出来上り、完成と同時に忘れられるものだ。』『原作「人間の証明」をひきちぎって、部屋一杯にならべ、主人公の心理の動きや、劇の運びを眺めると、大きな建築物を建てるような配慮や伏線が、随所に、はめこまれていることに気づく。僕は、締めつけられた、重要なナットをはずし、鉄骨を崩し、再びシナリオというビルに建てかえたに過ぎない。一見、原作にはないと思われるシーンも、かつて、原作者の脳裏を走ったシーンであって、それは「人間の証明」というビルを崩してみて、はじめて、発見するものである。このシナリオは、映像化されることで、更に変貌するだろう。シナリオには顔がない。顔を作るのは演出家である。

シナリオ 人間の証明 あとがき

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