また「深く考えすぎだ」「ただのタイアップだ」そう罵られるのを承知で書くならば、タイタニアン編、いや『アイアンキング』全編の終焉近くで弦太郎がギターで弾き語る歌は、当時石橋正次氏がリリースしていた『お嫁にもらおう』


 それまでは、劇中でギターで歌う事があっても、唱歌や民謡ばかりだった弦太郎が、血と体温と優しさと、幸せへの夢を持った先で歌う『お嫁にもらおう』。
 初登場時には明確に「戦うために育てられ、国家の為に命を賭けて戦争をする事しかインプットされていない欠格人間」だった弦太郎が、シリーズの最後半でこの歌を口遊む。それまでは「教科書に載るような歌」しか歌えず弾けなかった弦太郎が、自らの言葉と手で「愛する人と人生を共にしたいと願う歌」を弾き語る。

 その解釈を立証してくれるかのように『アイアンキング』最終回『東京大戦争』では、典子が「どっちのお嫁さんにいこうかなぁ」と冗談めかしてほのめかし、弦太郎と五郎が「勘弁してくれよ!」と、おどけて逃げ出すシーンで『アイアンキング』全編の幕は閉じるのだが(そこも佐々木氏一流の、タイアップへの配慮が生んだ、商業主義的な思想放り投げの終わり方なのだという異論もあろうが)そこで弦太郎と五郎が逃げ出したように、弦・五コンビにとって典子は妻にはならない。
 つまり「お嫁にもら」う対象とは見る事は出来ないのである。
 それは別に、典子がウーマン・リヴ派であるとか、器量が悪いとか(右京千晶嬢に失礼!)結婚対象として何か欠陥があるといった問題ゆえではないのである。
 結論を先に言ってしまえば、典子はあくまで「人間としてはまだまだよちよち歩きの幼児だった、弦・五コンビにとっての『母親』」だったからだ。
 正確に言えば、「人間としての条件を満たす人間」としての弦・五コンビにとっては、高村ゆき子が「生みの親」藤守典子が「育ての親」であったからなのだ。



 それは、独立原野党編のゲスト女性全員も含むのかもしれないが、彼女達が女性以前に母として、母が子どもに与える愛情を二人に注ぎ、現実の本当の厳しさを身を持って教えればこそ、弦・五コンビは人間になれたのである。
 その結論を前提に考えた時(またここでも「そういう路線変更や設定だったんだよ」とか野暮なことを言わずに向きあってみれば)シリーズ中盤以降の変化でもあり違和感でもあった「アイアンキングはなぜ単独でも勝てるようになったのか」「なぜ弦太郎は最終回近くまでアイアンキングの正体を知らなかったのか」という、二つの謎にも、素直に回答ができるのである。

 弦太郎と五郎、それぞれの中で「まだ人間でなかった『男の子』には無理な事、知らなくていい事」が、母の温もりの中で成長した先で、ようやく感じ取るアンテナも育ち、その結果、独り立ちしていくための準備期間を描いたのが『アイアンキング』の26本だったという仮定も成り立つだろう。
 その為には、まだ互いに機械でしかない二人の序盤では、どちらかだけの独力で、勝利を得てはいけなかったのだ。
 その証拠に弦太郎はタイタニアン編の第23話で純子(坂口良子)に向かって「残念ながら俺たちは、二人で一人前なんでね」と答えている。

 だからだろう。シリーズ開始当初は「クールで情愛を持たない冷酷な戦闘機械」と「愛嬌のあるロボット青年」でしかなかった二人が、最終シリーズのタイタニアン編ではどう見ても「悪ガキやんちゃ小僧コンビ」にしか見えなくなったのは。
 典子という「躾に厳しいうるさいママ」に守られた、「成長のやり直し」もバックボーンにあったのだろうと(裏番組の『マジンガーZ』(1972年)に対抗する為に、幼児層視聴者を獲得しようとドラマレベルを落としたという指摘をせずに)ここではそう読み取る方が自然だし、そう読み取りでもしなければやるせない「核」を、ここまでの流れで、シリーズ全体が築いてきてしまった事も現実なのである。

 『アイアンキング』タイタニアン編は、ゲストの背負うテーマも希薄であるし、これといった悲劇も描かれず、娯楽性へ逃避したと思われがちだが、実はここで描かれたのは(もう既に人間になった)弦太郎と五郎の成長と再生ではなく「国家に殉ずる道を選んでしまった一人の女性」の典子を、母への恩返しとして(まるで自分達が過去の女性達に誘って救われたように)弦太郎と五郎が、改めてコンビの力で、「しあわせとよろこびとさびしさを知る人間」へと再生させる、そんな物語なのである。
 そして、人間に戻った終盤でも「五郎がロボットである事実」を受け入れる前には、弦太郎と五郎が二人で典子を「人間の女性」に戻す義務を果たさなければいけなかった。

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