その代り、といってはなんだが、森川嬢降板以降は毎回の作劇が「ゲストの女優が登場し、なんらかの理由で石橋・浜田コンビと出会い、事件が終わると共に別れを告げる」パターンで構築されていき、そのパターンは同時期のウルトラシリーズが「毎回ゲストの子どもが登場し、なんらかの理由で主人公や怪獣と絡む」パターンと対を成しており、見比べてみると、ことさら『アイアンキング』の独自性が伺えて面白い。

 そこで登場する女優陣も、橋本洋二プロデューサーと当時大人気脚本家だった佐々木守氏が、互いのコネクションを駆使して集めた大盤振る舞いな豪華女優陣であり(そこは「佐々木守氏の脚本作品ならば、ジャリバンでもゲテモノ番組でもOK」という 女優が所属する事務所の政治的判断もあったのだと思われる)その面子も、関かおり、星光子という「『ウルトラマンA』(1972年)の二大・南夕子」をはじめとして、『おくさまは18歳』主演の岡崎友紀『八月の濡れた砂』(1971年)のテレサ野田、当時すでに『アイちゃんが行く!』(1972年)で脚光を浴びていた坂口良子、『シルバー仮面』ではレギュラーだった夏純子『決めろ!フィニッシュ』(1972年)主演の志摩みずえ『キイハンター』(1968年)で一躍人気者になった大川栄子等々、毎週が絶頂期アイドル女優ゲスト特番状態。
 しかし、旅ゆく先々で出会ったそういったゲスト女性陣から、弦太郎は次々に「貴方がいるから皆が不幸になる」「貴方からは血の匂いがする」「貴方は戦うことが好きなだけよ」と罵られ続ける。挙句には「静弦太郎の卑怯者!」と、去りゆく背中に罵声を投げつけられる。

 それは弦太郎が、不知火一族を倒すために、目前の怪我人を見捨てたり、一般市民の少女達をも「敵を誘き寄せる為」の囮に利用するからだ。 そうして闘い続ける静弦太郎は、そんな女性達が当たり前に抱く、優しさや悲しみといった「人間の感情」を知らない。
 誰からも教わっていない、味わったことがないから知らないのである。
 弦太郎は「戦う事、勝つ事、国家を守る事」しか、教えてもらわずに育てられたからだ。 弦太郎が向かう旅先で出会った女性達は、皆が弦太郎にとって母となり、しあわせもよろこびも知らない弦太郎に大事な事を教えて(多くは命を失って)作品世界から去っていく事になる。

 しかし、不知火一族の本拠地に向けて脇目も振らずにひた走る弦太郎が人知れず抱く「さびしさ」を知る者もまた、ロボットでしかない五郎ただ一人なのだ。
 弦太郎が一瞬抱いた「ゆき子への愛」は儚くも散った瞬間に「永遠」へと移ろい、その「果てしない孤独」は白いギターと共に、ゆき子の墓に置き去りにされたのだ。
 そんな弦太郎が勝ち進むたびに、かつて大和朝廷騎馬民族に滅ぼされかけた不知火一族の恨みは、それでも執拗に「大和民族」「大和政府」と共に「国家の為に全ての感情を捨てきった」弦太郎が全て背負っていくことになってしまう。 
 第8話『影の地帯』では(忍者物の定番とはいえ)不知火一族に生まれてしまった兄妹の背負わされた宿命と、大和民族(そんなものは実際は不知火一族同様に存在しないのだが)大和政府に滅ぼされた復讐によって、自ら命を散らしていく。
 しかし、次々と現れる不知火一族を倒す弦太郎は、常に爽快でニヒルでカッコよく、影はなく、何も背負わない、背負う心がそもそも最初からない。
 当時ファッションで持て囃された「孤独なアウトローヒーロー」の本質がどこにあるのか。「正義の味方」が持つ「原罪」の重たさや辛さはどこにあるのか。

『アイアンキング』は、主人公コンビによる滑稽なコントのような掛け合い漫才と、気障でシャイで不良性でアウトローな主人公像で「その真実」を暴く。
 天才・佐々木守氏はそんな「孤独過ぎて悲しすぎる青年」をして(当時)テレビの前にワクワクして座った子ども達や、石橋正次氏目当てでチャンネルを合わせた女性達に「カッコいい!」としか思わせない。

 そしてようやく第10話『死者へのくちづけ』で不知火一族編は完結をみるのだが、その不知火一族をテロリズムへ駆り立てたのも、弦太郎をカタワ者として育てたのも、人の良い青年・五郎を兵器に改造したのも、そこで生じる凄惨なる戦いを生んだのも、これは全て「大和民族・大和政府二千年の所業」なのだという構図が重たくのしかかる。
 そこであくまで「平和を乱す悪の秘密結社」として壊滅させられる不知火一族と、その次に登場する、「現政権を打ち倒すのだ! 革命の時が来たのだ!」と叫ぶ、パレスチナゲリラそのままの風貌の、独立幻野党という悪の組織について、佐々木氏は後年「佐々木氏の思想とは正邪が逆では?」という質問に答えた。

「確かに逆なんだけど、テレビじゃ反体制の人間を主人公にはできないよ。そんな企画書いても通らないし。ただ『不知火一族』にしても『独立幻野党』にしても、この日本に、国家体制に断固として逆らい続ける人たちがいっぱいいた方が面白いでしょう(笑) 断固として国家と戦い続ける人々の姿を書きたかった。自己満足かもしれないけれど、誰かがその気持ちを分かるだろう、ってね。大和朝廷とか騎馬民族とか、番組を見ていた子ども達があとになって、歴史の授業のときに『あぁそういやそんなことがあったっけ』って思い出してくれればって」

『夕焼けTV番長』「佐々木守インタビュー」岩佐陽一

 そんな「見るからにパレスチナゲリラ」の「独立幻野党」が暗躍する第二部。
 そこでは彼等が操るロボットは、見るからに「いかにもな恐竜型怪獣」の風貌。そこは他の巨大特撮ヒーロー作品群にも言えるところなのだが、特撮ヒーローの王者・ウルトラシリーズとは違う、各社の各シリーズは、各自、少しでもウルトラマンと違う作風やビジュアルを売りにしようと『ミラーマン』(1971年)は「インベーダーが変身した幾何学的フォルムの怪獣」『シルバー仮面』は「等身大で暗躍する、前衛的なデザインの宇宙人」『スペクトルマン』(1971年)は「公害の恐ろしさを醜さと混沌性で体現した怪獣」と、それぞれ工夫を凝らした、敵キャラのデザインワークを主軸に展開してきたのではあるが、泣く子と地頭には勝てず、子どもの移ろい激しいハートをキャッチしようとするあまり、どの番組も最終的には「ウルトラに出てきそうな恐竜二足歩行型怪獣」を出し始めた。その刹那的変化は『アイアンキング』にも言えた。

 『アイアンキング』の場合、終りかけた『ミラーマン』の裏番組として颯爽と登場し、『ミラーマン』終焉にトドメを刺した……という見方もできるかもしれないが、逆にフジテレビ別所孝治プロデューサーは、『ミラーマン』の後番組に(『ミラーマン』で円谷プロに別れを告げた脚本家・藤川桂介氏を引っ提げて)永井豪原作のスーパーロボットテレビ漫画『マジンガーZ』(1972年)をぶつけてきた。
 この『マジンガーZ』は登場後すぐさま、大ヒット人気番組になるのだ。おりしも『アイアンキング』は『マジンガーZ』を先駆けた「巨大ロボット対戦活劇」の先輩作品とも言えるのかもしれないが、『アイアンキング』はこの時点でちょうど、人型巨大ロボットが敵キャラとして登場していた、不知火一族編が終了。だからなのか『アイアンキング』は次の独立幻野党編からは「中身はロボットであり、党員からは『鋼鉄の同志』と呼ばれるが、外見的には『ありきたりな普通の恐竜型の怪獣』」で特撮シーンの見栄えを変えてきた。しかしそれは逆を言えば、特撮シーンだけ観るとやはり「『ウルトラマン』の亜流にしか見えない」という弊害も生みだすことになった。

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

おすすめの記事