前回『山際永三インタビュー 第七夜「山際永三とミュシャと映画の狂気と」』

代替テキスト
『恐怖劇場アンバランス』テロップ

――80年代からの、テレビドラマ界全体のメッセージ喪失の流れ、風潮に、山際永三監督ご自身が乗り切れなかったというのもあったりしたんでしょうか。

山際 ……絶望しましたよ。

――今のこの国が、民主主義の殻を被った全体主義的な方向に向かい、国民は自分の身近の幸せ以外何も考えるなという、そういう社会環境が完成されかけているのじゃないかと、自分は危惧するのですが、それはネットにも及んでいます。例えば上原正三氏が『帰ってきたウルトラマン』(1971年)で脚本を書かれた『怪獣使いと少年』があります。これはまさに、上正氏がその自身の存在を込めて、在日や沖縄人に向けられた日本の差別を、克明に描き出した名作なのですが、今のネットでウルトラファンを自称する人の中には、これすらも「作品としては傑作だ。だが差別問題提起とは切り離して観るべきだ」や「たかが子ども向けテレビに深遠なテーマなんて、作った側は考えてないよ。勝手に古参のオタクが深読みしているだけだろう」などと言ってしまう人も増えてます。70年代までのドラマは、ウルトラに限らず、作品に携わっている人々が全て、自身の存在を賭けて挑んでいたと思うのです。一本一本が闘いの場であり、真剣勝負の世界であったと思うのです。その時代を生き抜かれた監督は、決して怠けたわけでも、才能が枯渇したわけでもなかったのだと自分は思います。

『帰ってきたウルトラマン』『怪獣使いと少年』(脚本・上原正三)

山際 あえて言えば、映画というのは時代の産物であって、もちろん、映画の中身については監督が全責任を持つんですけど、映画というのはいろんな人が絡んでいて、監督というのはその中で妥協したりしながら作っているわけで、そういう意味では、時代の産物なんです。だから、決して僕一人の功績だとは思っていないんです。だから、表現については僕が責任を持つし、さっき言ったように、観てくれた人には確実に何かが伝わっているはずだし。ただ言ってしまえば、時代の中で僕の表現が、受け容れられなくなってしまったというのも事実なんですね。だから僕を支持してくれる人達が、少数派になっていったということはある。だけど僕は、それは、政治のせいにしたくもないし、政治主義的な説明をして、それで終わりにしたくも無い。僕の才能が、最後は枯渇したということでもあるんだ。時代の流れというのは、政治も含んだ、大きな流れであって、皆そこで、作家ではなくても、誰しもが一人一人が生活者として、そこの中に組み込まれ、何かの役割を果たしているわけで、だから政治のせいにして、全てを棚上げするようなことは、僕は全くしたくはない。「時代が悪い」と言って、投げて終わりにしたくない。だからこそ、時代と拮抗して生きていきたいとは思ってるわけです。僕はだから、映画やテレビの作品を作るという意味では、力を失っているんですけれど、ここ10年くらいは、小さな劇団の演出家として、それなりの表現活動をしてきたつもりです。これもまた、ある種限界があって、どうしようもない。どんどん年をくうというところで、どうしようかとは思っているんですけれどね(笑) だから、一本一本の作品については、僕は明確にね、ここは良かったとか、ここは失敗したとかあるんだけど、全体の、僕がやってきたことっていうのは、時代の中に位置づけられて当然というか、それなりに結果を出しているんだと思う。『テレビ映像研究』という雑誌があったんだけど、そこで僕は、70年代の終わりに書いたことがあって、そこで新藤兼人監督の批判を展開したり、僕はその時期、日本映画には絶望してた時期で。だから、いろんな意味で日本の文化そのものが、非常に力が無いなと思った時代なわけで……。僕ら、大島渚松竹ヌーベルバーグとかに憧れて、僕も新東宝からヌーベルバーグとして出るんだって意気込みはあったんだけども、その限界っていうのが、自分にあったっていうのも認めてるわけですよ。だから、日本文化全体がダメなんだっていうところを、もっと再確認しないとね。単に政治が悪いの、司法が悪いのっていうところでは、もう問題にしたくないしね。このところ僕は、「あの裁判は冤罪だ」とか「光市事件がどうだ」とか言ってはいるんだけど、それは多分にね、普通の人が、日本の政治はダメだとか、日本の裁判はダメだとか言うのとは、ちょっと角度が違うのね。僕は、いつまで経っても政治なんてのは、何党が政権をとろうが、なにかとダメに決まってると思うしね。日本に革命が起きたって、またひどい冤罪は起きるに決まっているしね。例えば、光市事件で市川森一がコメンテーターとしてテレビに出てて「僕は作家として、犯人の側で描いてきた人間ですけど、今度の事件はひどすぎます」とか言うんだけどね。何をお前は言ってるんだ、馬鹿!と(笑) 市川森一が、本当の犯罪というものを描いてこなかったというだけで、佐木隆三と同じで、すっかりテレビに毒されて、秩序と道徳の側になっちゃった。

『テレビ映像研究』

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

おすすめの記事