代替テキスト

「どうぞ」

にこやかな手で注がれたコーヒーが差し出された。
白髪を蓄え、しわがれた容貌であったが、血色も良く、物腰もしっかりされている。
山際永三監督(当時75歳)は筆者の向かいにゆっくり座られた。

今を去ること15年前の、2007年11月の上旬、そこは都内の閑静な住宅街にある山際監督の応接室。
日本のテレビドラマ界で大きな功績をのこした監督の家の一室で、筆者は全身を緊張させながら、頂いたコーヒーを啜った。

山際永三監督は、近年、彩流社から、『監督 山際永三、大いに語る;映画『狂熱の果て』から「オウム事件」まで』(2018年)なる談話集を発刊したが、それは昨今、特にウルトラマンや仮面ライダーなど、往年の子ども番組やアニメに関わった方による、回顧録的インタビューが、オタク市場の一定のニーズを得てビジネスに成り立ってきたからであって、筆者が今回発表するインタビューを行った2007年時点ではまだまだ、山際永三監督にスポットを集中的に当てて迫ったマス出版関係は皆無であった。
だからこそ、今回紹介するインタビューは、既に12年前の物であり、上記した書籍と内容が重複している部分もあるかもしれないが、「山際監督の生の声をそのままに伝道する」一つのパイオニアとして受け止めてもらえれば幸いである。
また、ビジネス的理由から、今となっては語れない部分もあるだろう。それだけ、山際監督密着インタビューとしては黎明期にあたる物であるだけに、それなりに価値がある物だとは自負したい。
昨今、様々な書籍や特撮ムックで、似たような山際談話が読めるかもしれないが、今回発表するのはそういった後発の諸々の「再放送」ではなく、こちらが「初収録」であることを強調しておきたい。

1961年に、新東宝の系譜の大宝から『狂熱の果て』で映画監督デビューし、その後国際放映に在籍して『チャコちゃん』(1966年)や『コメットさん』(1967年)などの子ども番組で常にトップを独走し、『帰ってきたウルトラマン』(1971年)をはじめとするウルトラマンシリーズで、上原正三、市川森一、田口成光らとコンビを組んで、珠玉の作品群を生み出し続けた山際永三監督。

国際放映『チャコちゃん』(1966年)

この『シネトーク』一人目のゲストは、そんな山際監督に対して2007年に行ったインタビューを、八回に渡ってお送りしたい。

社会と向き合い、現代と向き合い、未来を作り上げるのは子どもたちであるとしっかり認識して、TBS橋本洋二プロデューサーなどと手を取り合って、60年代から70年代の子どもドラマ界を常にリードし続けた、一人の監督の言葉を、お聞きしたままに伝えたいと思う。
筆者は緊張を解くためにコーヒーを一気に飲んで、用意していた言葉を監督に投げかけ始めた。

――監督、今日はお時間を頂きまして本当にありがとうございます。今日は監督がこれまでに手がけられました、様々なテレビドラマなどのお話をお伺いしながら、ただウルトラのみの総括をするだけではなく、監督が携われた子ども番組、ドラマ全体のお話に耳を傾けたいと思います。監督は本当にたくさんのジャンル、番組を手がけられました。国際放映に在籍されてからだけでも数百本のフォルモグラフィがあります。その中で様々なプロデューサーや脚本家達と組まれて、仕事をなされてきたわけですが、その中では例えば、市川森一氏との無敵のコンビもあったわけです。しかしテレビの世界の時代の流れの中で、子ども番組やファンタジーという物の価値が変わっていってしまい、また、監督も市川氏とのコンビを解消していく流れなどあったわけで、今日はまずは、監督のお仕事の中で重要な位置を占めていた、ファンタジーという物の位置づけのようなところから、お話を伺いたいと思います。

『コメットさん』『アリの国探検旅行』脚本・市川森一 監督・山際永三

山際 もちろんいろんな都合で、面白くない脚本で演出しちゃったときもあったけど、そういうときは半ば諦めて、まぁまぁなんとか形になればいいなと思って、手を抜いたこともありました。ただまぁ、手を抜くにしても僕なりのやり方でやってきましたから、ウルトラマン時代の、1970年代前半ですが、僕のやり方というのはまぁ間違ってはいないと思っています。市川さんとの問題も仰るとおりで、僕はあんまりファンタジーってことで考えたことはなかったんですけど、彼にとってはファンタジーというか、現実とはまた違ったところで彼はいつもやってきたわけだけれど、僕や橋本(洋二)さんは彼に対して、仲間として批判も随分してきたわけです。橋本さんはごく常識的な立場から、市川森一の作品的甘さを批判していたしね。ただ、夢のような美しいファンタジー・フィクションということじゃなくてね、フィクションの力っていうことを彼が僕に教えてくれたってことでは、市川さんはなかなか力を持っていたんですね。もう、今でも思い出すんだけど、最初の頃『コメットさん』で、お母さん(坂本スミ子)が結婚記念のダイヤモンドの指輪を落っことしてしまう話があって(第50話『アリの国探険旅行』市川森一氏によるシノプシスタイトル『ダイヤとケーキ』)ダイヤモンドがなくなっちゃうのね。で、もうキーキー怒って探すんだけど見つからないわけ。ケーキと一緒に(みんなが)食べちゃったわけだ。で、涙が出てくるとそこにダイヤモンドがくっ付いて出てくるという……。僕は「ケーキと一緒に食べちゃったんならね。ウンコと一緒に出てくるんじゃないのって」言ったのね(爆) でも市川さんはね「そりゃぁ山際さん、涙と一緒に出てくるほうがいい」というから、まぁ合作ね。「ケーキを食べたらウンコになって出てくる」という、僕のごくリアルな発想に対して、彼の「涙にしよう」というフィクションね。これが僕らの間で非常に上手く実った時期があったんです。「現実の裏づけのあるフィクション」というものなんですけどね。

『アリの国探検旅行』より

――監督は今、話に出た市川森一氏と、TBSの橋本洋二プロデューサーとで「一・二・三トリオ」として、当時のテレビ界では伝説を作るほどに有名だったわけですが。そのトリオで『コメットさん』『どんといこうぜ!』(1969年)などからはじまる一連のテレビ映画作品を作られていたとき、橋本氏と市川氏との間で監督をされていた山際監督は、トリオの中での監督なりのスタンスが、どうであったかをお聞かせください。

山際 市川さんと橋本さんと僕が組んだ中でね。僕自身から見てテーマ的に対立したことは全くなかったのね。橋本さんは市川さんに「現実的な裏づけがない」ということで批判はしていたけれども、現実の方は僕がどうにかするという気もあったし、市川さんが持ってくるフィクションの部分を、僕なりに面白いと思えば、ここを膨らませれば大丈夫だと。「裏づけは後で僕がやりますから」ということでまとめたわけでね(笑)ほとんど対立はなかったんです。ただ橋本さんと唯一意見が違ったときは、木戸愛楽さんと組んだ話(『ウルトラマンタロウ』(1973年))『血を吸う花は少女の精』)で、身寄りの無い少女を育てていたのが代議士の家という設定だったのだけど、そこで代議士っていうのを僕は強調したかったのだけど、「政治的なことは言うのはやめようよ」とか(橋本氏が)言って、僕がちょっと泣く泣く切ったところははあったりしました。でもそれは(完成作では)もう最初から、代議士自身は出てこないということでね。

『ウルトラマンタロウ』『血を吸う花は少女の精』

――確か完成作品では、奥さんとお手伝いさんだけでドラマが進行しましたね。

『恐怖劇場アンバランス』

山際 そう。そんなところではちょっと橋本さんとは意見が違ったりしたけれども、それはもう僕が、すぐ折れて切ったりしたんでね。でも、他では特に橋本さんと対立したことはないんですね。市川さんとも対立したことはないんですよねぇ。ただまぁ『恐怖劇場アンバランス』(1969年製作 1973年放映)(『仮面の墓場』(脚本・市川森一))なんかは、もしかすると市川氏が、どうかなぁと思うくらいに僕が弄くりまわしちゃったところがあって、最後のほうでお婆さんが出てきて、女の子がまた出てきたりするところは、もうちょっと、市川さんとしては「そんなことまでしなくていいのに」という感じはあったと思うんですよね。あのシリーズは鈴木清順さんもやってて(『木乃伊の恋』)、あの作品も鈴木さんの傑作なんですけどね。僕が撮った『仮面の墓場』の試写に、たまたま鈴木さんがいたわけなんだけど、その鈴木さんが「これはオクラ(お蔵入り)だ!」って(爆) あれは(円谷)皐さんから「なんでもいいから怖い物を作ってくれ」って言われたもんだから(笑) 最初は『コメットさん』の『いつか通った雪の街』(脚本・市川森一)で、男の子と女の子が、崩れた煉瓦から別の世界へ入っていくという、それをもう一回やってみようと市川さんと話し合ったところから始まった作品で、その後は、その男の子が演劇をやりだすとか、潰れかかった映画館で(芝居を)やるとかいう話になっていって、そこでもし殺人事件が起きるとすればとかっていう風にもっていったのは、市川森一のごく常識的なドラマ作りですね。途中で書きながら、唐十郎さんに出てもらおうという話になって。僕や市川さんは(唐の主催する)赤テント劇場を観てましたからね。演ってもらおうってことになって、生原稿で唐十郎さんには読んでもらって、あの作品は、唐十郎さんの、その後のドラマ作りにもだいぶ影響を与えたらしくてね。唐十郎も喜んでくれてたんですよね。あの作品も、唐十郎や緑魔子なんかと力を合わせることで出来たっていう。だから、テレビにあんな物が流れることは珍しかったんだけれども、ある意味でテレビに慣れて、テレビ界でまぁまぁ視聴率が取れるものをやってきた市川森一とくっつけば、なんかそうそう酷いものにもならないだろうと(笑) あくまでも「テレビの中でやれるものを」として考えられた物ではあるんですよ。だから劇場用映画という意識は全くなかったんですよね。むしろ、映画と演劇が衰退していくという、物語文化の衰退を預言したっていう意味では、普遍性があるじゃないかって威張ってるわけですけどね(笑)

『恐怖劇場アンバランス』『仮面の墓場』脚本・市川森一 監督・山際永三
『仮面の墓場』より。唐十郎(左)と緑魔子(右)

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