――例えばその中で、上原正三氏についてはどんな印象をもたれていますか。

山際 まぁ非常に近親感を持っていましたね。僕は一緒に仕事をしたことはないんだけど金城哲夫ってのがいて、そして上原正三、市川森一、田口成光の4人が円谷プロにいて、プロデューサーとして熊谷健さんがいて、それが円谷プロの若手の布陣だった。僕は金城さんとも個人的に付き合ったりはしてたから、非常に皆にも近親感は持ってたんですよ。例えば、市川さんはどっちかというと器用だからね。話を向こうから持ってきてくれて、僕と橋本さんが「ここがいいね」「こうしようああしよう」と言って盛り上げると、翌日にもうすぐに第二稿が出来上がってくるんですよ。そして第二稿でほぼ完成っていう。あとはちょっと細かいところをなおして第三稿で完成ってくらいにね。市川さんは要領も良いし早いんですよ。ところが上正(上原正三)さんなんかはちょっと時間がかかるから(笑) 一生懸命持ち上げてみたりして。

――ここでちょっと上原氏と組まれた『帰ってきたウルトラマン』(1971年)の『大怪鳥テロチルスの謎』『怪鳥テロチルス 東京大空爆』前後編についてお伺いしたいんですが。上原氏が円谷を辞めてフリーになったこの頃に、一番鍛え上げてくれたのが、橋本氏と山際監督であろうと思われるのですが。

『帰ってきたウルトラマン』第16話『大怪鳥テロチルスの謎』

山際 みんなも僕を尊重してくれたし、僕も彼(上原氏)の仕事が上手くまとまるように努力したのも確かです。テロチルスの時もね、随分上原さんは「佐々木守の真似はしたくない」みたいなところもあって。そもそもああいう話も佐々木守の世界ですからね。上正さんはかなり苦労したという印象はありますね。だけど、なんとかまぁ書き上げたって感じで。

『大怪鳥テロチルスの謎』の松本三郎(石橋正次)

――『帰ってきたウルトラマン』での上原ウルトラマン世界観は、怪獣がすむ世界のドキュメンタリズムが強かったんですが、監督と組まれたテロチルス編は、完全に人間ドラマと怪獣サスペンスが、平行して独立して展開する作劇になっています。

山際 アレは橋本さんがそういう作り方をぜひやろうということで、ああいう話になっていったんですよ。あれは僕もあんまり僕のテリトリーじゃなくって、橋本さんの方向性でしたね。なんでテロチルスが出てくるのか全然わかんない(爆)

――監督から見て、上原正三という作家はどんな方でしたか?

山際 やっぱりあの人と金城さんは対照的な沖縄の人で、金城さんは純粋な沖縄人だったけどね、上正さんはね中国人なんですよ。顔ものっぺりしてて中国的な顔で。琉球の王朝が中国人を迎え入れて、那覇の特別な地域で、中国人だけが住んでた特殊な時期があってね。結婚も全て中国人同士で行うから、沖縄の血が混じらないっていう、そういう育ちがあって、上正さんはそこの生まれなんですよ。曾お爺さんか誰かが薩摩に殺されて、首を切られたなんてことがあって、上正さんは沖縄の出身ってことを自分で意識しているんだけどね。金城さんとは対照的で、金城さんは結婚も沖縄の女性としたんだけど、上正さんは円谷プロの女性と結婚して東京に住んで。金城が死んだときに、もう大変だってことになった時にね、上正さんは仕事が忙しかったかなんかで、葬式に駆けつけなかったんだよね。もちろん後で行ったんだけど、その夜は駆けつけはしなかったんだって。田口(成光)はいち早く飛行機に飛び乗って行ったんだけどね。

――田口氏は、金城氏を本当に慕っていて、沖縄も愛していた方でしたね。

山際 金城さんのお葬式に、いち早く駆けつけていったんだってね。みんな「あぁ田口は良い奴だなぁ」と(笑) 「それに比べて上正はなんて冷たいんだ」ってねぇ(笑) まぁそれは(上原氏は)たまたま仕事で忙しかったからなんだけど、そういう人間関係があって、上正さんはすごく沖縄を意識しているくせに、沖縄から飛び出そうとしたコスモポリタンであって、僕はそういう上正さんの部分にある意味では共感してね。上正さんの脚本が上手くいくように祈って、いろいろとバックアップもしたつもりなんだ。

――上正氏をはじめとして、佐々木氏、市川氏、様々な作家と組んだ山際監督ですが、そういった方々はそれぞれに監督の中で、どう差別化されていますか?

山際 佐々木さんは僕よりむしろ早くから、橋本さんとラジオ(『戦国忍法帖』(1961年))とかをやっていてね。テレビでは『七人の刑事』(1961年~1969年)であったり、既にもう彼は自分の世界を作っていましたからね。その世界は(佐々木氏が橋本氏や阿部進氏達と共に当時提唱していた)「現代っ子」って意味では僕と近いんだけれども、体質的にはそんなに僕と共通の物はなくてね。彼が大島渚創造社で作っていた作品に対しても、僕はあんまり愛着を持って観るということはしなかったし、良く解らなかったっていう部分もあるんですけどね。市川さんはもちろん、僕の中で一番やりやすかったですね。いろいろ持ってきてくれるアイディアが面白い物が多くて、彼が持ってきたフィクションで僕が乗らなかったものがないくらいに、面白いことを考えてくれたんだよね。上正さんについては、あんまり彼とやったもので傑作って印象がないんだよね(笑) 彼と組んだ『どんといこうぜ!』(1969年)なんだけど、バスに乗って山の中に入って行って、バスの中で、子どもが生まれちゃうって話(『急がば回れ』)は上正さんでしたかね。あれはなかなか上手くいったんですがね。田舎の山道をバスでドコドコ登っていったら、エンコしちゃって、途中でお腹の大きいお母さんが産気づいちゃうの。皆大騒ぎで困るんだけど、まぁなんとか助け出して、病院に担ぎ込んだって話なんだけどね。それを(主演の)なべおさみが、面白く演じてくれてよかったんですけどね。

『どんといこうぜ!』台本

山際監督は、こうして『帰ってきたウルトラマン』からウルトラシリーズのローテーションに入って様々な作家と組んで傑作、名作を送り出すようになります。次回「山際永三と『帰ってきたウルトラマン』と」みんなで読もう!

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