前作『ウルトラQ』(1966年)を見渡すと、明確に地球を侵略するという意図で姿を現した異星人が、実は少なかったことに気付かされる。

ナメゴンやボスタングを地球に送り込んだ宇宙人の姿は、描かれることはなかったし、ケムール人は未来人であり「未知の宇宙からの来訪者」ではない。

ゴルゴスやバルンガは宇宙からの生命体かもしれないが、地球侵略という意図とは無縁の生物だろう。

『ウルトラQ』で唯一その姿が描かれた「侵略宇宙人」が、『ガラモンの逆襲』に登場したセミ人間であり、そのセミ人間のデザインが、今回登場するバルタン星人の源であるのは周知の事実である。

70年代のウルトラ評論から指摘されていたことだが、『ウルトラセブン』(1967年)や第二期ウルトラの宇宙人と、『ウルトラマン』(1966年)で描かれる宇宙人には、明確な差がそこに感じ取れる。

セブンの宇宙人達が、星間侵略戦争という図式の中で、実際の地球上の戦争構図をカリカチュアするために、異民族人を投影されて描かれたり、第二期の「星人」たちが「ちんぴらやくざ(by石堂淑朗)」のように描かれたりしたのとは違って、本作に登場する宇宙人たちは、それはウルトラマンやゾフィも含めて、徹底した「人知の及ばない異質な存在」として描かれているのだ。

ダダの行動目的や、ザラブ星人の使命感の根拠、メフィラス星人がなぜあそこまで「地球をあげます」という言葉に拘ったのかという疑問や、ゼットン星人に見られたコミュニケーション不可能さに至るまで。それは徹底されている。

その中で唯一「地球を侵略する理由」が、描かれていたのが、バルタン星人なのである。

しかしその、バルタン星人には「生命」という概念がない。

しかし、生存したいという意思は強く持っており、だからこそハヤタは移住に同意を示すのであるが、移民族が定住先を求めて彷徨った結果、移住先の民族と争わざるを得ないという、今回描かれたこの構図は、極めて原始的な「戦争勃発」の図式なのではないだろうか。

それはまだ、人類が科学兵器を持つ前の日本で言えば、大陸から騎馬民族が攻め込んできて、日本原住民族を抹殺して周っていた時代の、侵略戦争の図式に近い。

移民が少数でありさえすれば、それはそのまま、移住先の社会における、マイノリティの位置を得て終わるのであろうが、それが、移住先の民族の数を凌駕するほどの数であれば、それは全面戦争という形をとらねばならない。

「差別される移民で終わる」のか「全面戦争に発展するのか」は、それは移住する側の数で決まってしまうのだ。

それが、移住する側、される側、両方のエゴの結果でしかないのだと、本作の脚本・監督を担当した飯島敏宏監督(脚本の千束北男は飯島監督のペンネーム)には、しっかりと解っていたのだ。

そしてこの話は、『ウルトラマン』という伝説になった番組においては、制作第一話であり、ウルトラ世界で始めて「宇宙人と地球人の衝突理由」が描かれた、記念すべき作品なのである。

「悪い宇宙人を正義のヒーローが倒す」という、子ども番組ではそれまでも描かれてきた、至極当たり前の構図において、「人類が戦争を起こしてしまう原罪」が、はっきりと描かれた例は、それまでの日本の子ども番組では、ほとんど無かったと言っても過言ではない。

そして先述したとおり、バルタンの侵略の図式は、まさに大和朝廷が日本列島を侵略して、制圧し、原住民族を滅ぼした、その理由や原因と、酷似しているのである。

それを「大和朝廷に滅ぼされきらなかった」琉球民族たる、金城哲夫氏や上原正三氏が、どう思い、脇で見守っていたのかは、今となっては窺い知る由もないが、バルタン星人侵略の図式は、民族同士の極めてデリケートなバランスの中で、いかに話し合いその物が困難であり、それによる解決が現実で起き得ないかを、『ウルトラマン』開始と同時にはっきりさせてしまったのである。

飯島監督は、本作のクランクイン三本を任され、『ウルトラマン』の演出面での基本フォーマットを作り上げた存在であるとは、今ではファンなら当然知っている事実であるが、その三本で飯島監督は、植物・動物・宇宙人が、それぞれの立場から、人類社会と衝突してしまうのだという、物語世界の基本構造を構築してみせた。

その中で、動物のネロンガには環境適応能力と生存本能があり、植物のグリーンモンスには捕食本能と進化能力があり、宇宙人のバルタン星人には、侵略目的が明確に描かれていた。

その、どれもに共通するのは、地球人類という環境とバッティングしながらも、生存したいのだという本能である。

誤解を恐れない言い方をしてしまえば、この三本に登場したキャラ達には、悪意を根源とした人類への敵視は全くない。

そして、その「悪意がないにも関わらず、自らが生息する環境を守ろうとした結果、はからずも人類社会と敵対してしまう」というスタンスは、『ウルトラマン』という作品に登場する怪獣達の、基本特性になっていくのである。

前作『ウルトラQ』では、宇宙人はその意図どころか、姿すら現さず、怪獣達はアンバランスな世界の王者だった。

彷徨い足を踏み入れたのは、常に人間の側であり、結果、主人公の万条目達は毎回毎回、闇夜で足元を探りながら歩くように、一歩足を踏み出すたびに「何者かが王者の世界」に、迷い込んでいたのである。

しかし『ウルトラマン』は、アンバランスゾーンに降臨した、銀色の調停者によって、人類にとっての秩序が、保たれるべき世界が舞台なのだ。

ウルトラマンは調停者であっても、公平な裁判官ではない。

結論はいつでも「まず人類ありき」で用意されており、ウルトラマンはそれを執行する存在。

しかし、この制作第一話で、いきなりウルトラマン・ハヤタは、人類にとって不愉快(不利益ではない)にしかならない「バルタン移住」を了承しているのである。

これは何を意味するのか。

飯島監督が、シリーズ最初の作品で、一体何を描こうとしていたのか。

その謎は、本話から35年経った『ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT』(2001年)という作品で明らかになった。

この、35年を経て描かれた「バルタンの真実」に関しては、コスモス劇場版の評論で書いていくのでここでは割愛するが、王道娯楽路線の印象が強い、飯島監督作品において、本話とコスモス劇場版に関してだけは、そこに、金城哲夫氏以上のコスモポリタニズムを見ることが出来るのだ。

では、金城氏の理想が、飯島監督のそれに比べて、矮小なものであったのかといえばそうではない。

ただただ、金城氏のそれの方が、現実の中でマイノリティとして苦しめられた、琉球民族の魂を背負っていただけに、そのコスモポリタニズムを体現していく上で、大前提としている姿勢の中に、身がちぎれるほどの悲壮さを感じざるを得ないのだ。

やがて論じるときもあるだろうが、金城氏が、氏の理想を体現する際の条件として、ウルトラマンやセブンに託した願いは「個を捨てよ」であったのは間違いない。

個を捨て、怨念や過去の確執を忘れ、自分と異なる存在への違和感すら捨てて、ただただ全ての者と同化しようと手を差し伸べた先にしか、真なる調和は存在しないのだと、金城氏のウルトラマンは無言で告げ続けた。

そのために、金城ウルトラマンは、「宇宙正義」を捨てて「地球正義」に同化してみせたのだ。

それに対して、飯島監督のウルトラマンは、明確な宇宙正義を持っていた。

だからこそ、移住を求めたバルタン星人に「いいでしょう」と了承したし、そこで「話し合いは終わった」と、暴れだしたバルタンを容赦なく全滅させたのだ。

その「明確な宇宙正義」が何を裁き、何を作り上げるのかのビジョンが描かれるのは、前述したコスモス劇場版まで待つしかないのであるが、その大前提としての「移民族同士の衝突において、話し合いは解決を生むことはない」という真理は、35年経った作品でも変わることはなかった。

金城哲夫氏は、その真理を、作品内で決して認めることはしなかった。

それは、例えば『ウルトラマン』では「そもそも異生物同士なので、相互理解は最初からありえない」とでも言いたげなロジックでその真理から逃げ、基本的に異民族同士の対立構造を描いた『ウルトラセブン』でも、金城はどこか必死になって「侵略宇宙人は、そもそもテロリストでしかないので、話し合う余地がない」というロジックを使い続けていた。

しかし、ついに、飯島監督が本話で描いた「異民族同士が、互いの存続生存のために衝突を起こしてしまい、そこで話し合いがもたれるけれども、相互が相容れることは果たせない」という真理を、金城氏は『ノンマルトの使者』で描くことになるのだ。

金城氏が描こうとした、金城式コスモポリタニズムは、表面上は佐々木守・実相寺昭雄コンビによる、ニヒリズム的な視点が崩したと思われているが、実はマン・セブンを通してみていくと、飯島監督や満田かずほ監督の演出や、若槻文三藤川圭介といった脚本家、そして他ならぬ琉球の盟友・上原正三氏などによって、多方面から切り崩されていった部分もある。

人類が、内面的根源に抱えている真理を、真正面から見据えた先に、飯島式コスモポリタニズムがあったのだとして、金城氏のその姿勢は、だからといって責められるものではないだろう。

まさにそれは、「それでもきっと」という、悲壮な願いにも似た、想いだったのであろうから。

金城氏が受けた戦争経験と、金城氏に流れる悲しき琉球の島の血と、その「国」が受けてきた歴史。

そして、それでもなお、金城氏の中にあった「僕は沖縄と日本の架け橋になる」という決意を思ったとき。その金城氏が、子ども向け番組でメインライターを務めるに当たって、架け橋になるために求めた希望を、ヤマトンチュの誰が笑えようか。

地球(日本)の人口を凌駕するほどの人数で、強制的に移住しようとしたバルタン星人(大和民族)を、ウルトラマンに打ち滅ぼさせた飯島監督もまたきっと、金城氏とは違ったコスモポリタニズムで、金城ウルトラマンを支えたかった、一人だったのではなかったのだろうか。

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